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「言葉は歌なり 歌は言葉なり」

父はよく、私に歌を歌ってくれた。おそらくセネガルでは定番の、子供をあやすための手遊び歌のようなものだった。記憶が正しければ、それは「ラーインベレ、アフジャマノ」というような、セネガルで話されている“ウォロフ語”らしい歌詞から始まり、それからしばらく単調な調子が続く。私が「パパ、あれやって」とねだると、父は笑顔で手をたたきながら歌いはじめ、私も手を叩いてそれをまね、まもなく起こることへの期待に心拍数があがってこらえきれずににニヤニヤと笑う。

単調なメロディがおわると、父は私の小さい手を取り、その上に自分の2本の指を乗せた。そして、父の歌う「ニギリ、ニギリ、ニギリ…」というまじないのような歌詞に合わせて、父の長くて細い指が、人が歩みを進めるように私の手の平、腕、肩まで登ってくる。私は笑いながら身をよじるが、“ニギリ”から逃げることはできない。ニギリは肩までくると、文字に起こせない父の言葉とともに、ついに私の首をくすぐった。私は手足をバタつかせ、キャーーと笑いながら身もだえる。憶えているのはこれだけ。曲のタイトルも、歌詞の意味も、いまだにわからない。

小学3年生のとき、小学校の音楽の先生に勧められ、市が運営する合唱団に応募した。ごく簡単な入団テストを受けて無事合格し、それから高校2年生ごろまで在籍した。毎週土曜日、約100人の団員が使うにしては十分とは言えない広さの練習場の中で、私たちは世界中の歌を歌う。教会で歌う厳かな聖歌から、朝ドラのオープニングまで、次から次へと与えられた楽譜を食むようにして覚え続けたあの7年。

今でも私には、曲を完璧に歌えるようになるまで繰り返し歌い続ける癖が残っている。あるとき、流行りにのって無料のサブスクで音楽を聴くようにしてみた。シャッフル再生に翻弄されるがまま、しらずしらずのうち曲を聞き流すようになり、気づいたときには頭の中に“歌えないけどなんとなく知っている曲”がおおぜい居座わっていた。それはまるで、通っている大学の近くに賃貸を借りて友人を入り浸らせていたら、いつのまにか知らないやつまでコタツの下で寝そべっていた、というような厄介さ。顔はわかるが名前は知らない。お気に入りのテーブルの上に、勝手に置かれたそいつのピアス。家主なのに居心地が悪い。

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「もっと知りたい。こんなとき、貴方になんと伝えようか。もっと聞きたい。貴方はなんて言ってくれるの。」 月2回更新します。

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