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MUMMY & AMY SAYS

 1ヶ月ほど前に貸していたままだった本を、母は大事そうに腕に抱えてやってきた。

 「エイミーがね、私の知らないうちに、ダグちゃんと別れてたの。」

 エイミーというのは、母が持っているその本「私のことだま漂流記」の著者で、山田詠美のことである。

 「エイミー、もう64歳なのね。私ももうすぐ50なんだもん。そうだよね。」

 母は、私に向かって話しているのか、はたまた独り言なのか、ぽつりぽつりと宙を見つめながら呟いていた。その顔は、はじめての恋人との甘い日々を打ち明ける少女のような恍惚とした表情であった。

 すぐ横では祖母が慌ただしく夕飯の準備を進め、祖父は箸がないだのなんだの大声で喚いているというのに、よくそんな顔ができたものである。

 私は物心ついたときから、ママは本が好きな人なんだな、と理解していた。自宅の押し入れの奥に隠すように置かれていた衣装ケースには、単行本と文庫本がぎっしりと入っていて、幼い私は、母の居ぬ間をうかがってはそれを掘り起こして眺めていた。三島由紀夫、谷崎潤一郎、田辺聖子、山崎ナオコーラ、そして、山田詠美。幼い私にそれらを熟読する力はなかった。だから、眺めていただけ、である。

 本を読まない人でも名前くらいは知っているような文豪たちの名作は、山田詠美が書いた膨大な本の合間の休符のように点々と挟まっているだけだった。母の秘密の本箱の中のほとんどは、山田詠美によって埋め尽くされていたのである。

 我が家のコンボからは、大抵ブラックミュージックが流れていていて、私の父はブラック。それらを愛する母と、物静かな読書家の母。私は長いあいだ、この2つが一体、どういういきさつで共存しているのかが、不思議で仕方なかった。成長して、衣装ケースの本を少しずつ読めるようになった頃、私はそれを理解したのだった。ママは、エイミーと一緒に生きてきたんだ、と。

 成人して、叔母とお酒を飲むようになり、酔った叔母は私に笑いながら話した。

 「アンタのママは昔っから変わり者で、平日はじみーなカッコして本屋で働いてるくせに、休みになるときれーに化粧して派手なカッコなんかしちゃって、六本木かどっかに遊び行っちゃうの。それで家の中ではだんまり。側から見たらなに考えてるかワケわかんなくてさ。変な子だったわ。」

 今では年中薄化粧で引っ詰め髪の母がそんなことをしていたなんて、と私は驚いた。驚きつつ、普通の書店員があんなファンキーな男と結婚しないわな、とも思った。母は父のことを「ジミー」と呼んでいる。父の本名にはジミーのジの字もないので、その由来には六本木の夜の小恥ずかしいエピソードが隠されているに違いない。そう考えて、私はニンマリとしてしまった。

 これは余談だが、父と母の結婚には反対しなかったのか、と祖父母に聞いたことがある。すると2人はこう答えた。

 「そりゃあ心配したし、どうなんだと思ったけど。結婚してそのあと生まれた亜和がかわいいのなんのって。そんなことはどうでも良くなった。」

 この言葉を思い出すたび、私は常日頃祖父母についている悪態の数々を大いに反省する。そして翌日また悪びれもせず悪態をつく。今日も面倒くさがる祖母に無理やり海苔巻きを作らせた。いつもお世話になっています。

 母はこれまで、どれほどエイミーの言葉を信じ、憧れ、生きてきたのだろう。それは母の目を通り、心を伝い、子宮の中の羊水に溶け出して、娘の私をもエイミーの世界へ連れていつた。

 冒頭の著書の中でエイミーは言っていた。

 「私は、自分の仕事の怖さを知ることは重要だと信じている。文学においても、しかり。書けちゃって書けちゃって困るんですよ、などと放言している新人作家に出会ったりすると、つい失笑が洩れてしまうのだ。大丈夫だよ、その内、書けなくなるから……っていうか、書けないものを書こうとしてみなさいよ、と。」

 母はエイミーと同じように、なにかを書いて表してみたいと思ったことはないのだろうか。それについて私は、ママは読みすぎて書けないのだ、と勝手に解釈をしている。今だって、毎週図書館から大量の本を借りて帰ってくる母は、あまりにもたくさんのことを知り、畏れ、押し黙り続けているのだ、と。それを思えば、私がこうして拙い文章を苦し紛れに発信し続けていられるのは、私が母よりはるかに物知らずで愚かだから、という他ない。

 母はいつからかエイミーの新刊を買わなくなっていた。私の中のエイミーは今でも、ANIMAL  LOGICの裏表紙の、頬杖をついた若かりしエイミーなのだと母は言った。

 「私ももう大人なの、エイミーの言うことばかり聞いてられない。」

 そんな母にもういちどエ山田詠美の本を読ませたのは私だ。

 ママが誰にも言わなかった話、私、解るよ、という代わりに。

 エイミーを通じて、私は母のことを少しずつ知り始めたばかりだ。どんなクラブに行っていたのか、酔っ払ってどんな失敗をしてきたのか、どんな男をセクシーだと思うのか(ここは親子でもあまり一致しないらしい)。

 母から母親らしい教育を受けた記憶はない。

 ただひとつ、母が幼い私に言ったこの言葉は、なぜか今でもしっかりと憶えている。

 「エイミーの本の上に、物を置かないで。」



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