パパと私
パパと会わなくなって7年経った。
死んでしまったわけではない。パパは私が住む家から歩いて1分ほどの場所に住んでいる。でも会わない。
喧嘩をしたからだ。
私が18になったとき、私とパパは警察が来るほどの大喧嘩をして、それ以来いちども顔を合わせていない。
私のパパはセネガル人だ。アフリカの西の、イスラムの国の人間だ。
私の本名には苗字がふたつ付いていて(戸籍上片方の苗字は名前扱いになっているけど)、パパの家系の苗字はセネガルの由緒ある聖人の家系の印として付けられているらしい。
パパが言ったことなので本当かは分からない。でも実際、時々知らないセネガル人から「ごきげんようプリンセス」とメッセージが届く。くるしゅうないぞ。
今でこそ横浜の片田舎で祖母の作った鯛のあら汁を啜るどこにでもいるプリンセスこと私だが、パパと暮らしていた幼いころの家の様子はやはり他とは異なるものだった。
壁いっぱいに飾られた教祖様の肖像、家の中に響く大音量のアザーン、1日5回のお祈りの声。
食事のときは右手を使い、豚肉は絶対に出てこない家。
年に何度かパパに内緒で食べる豚骨ラーメンがなによりの楽しみだった。それでもチャーシューを食べるのには躊躇いがあり、箸で摘んで祖父の器に放り込んでいた。
こんな異様な家でも、本当に神様を信じていたのはパパだけだったので、私も適当に信じるフリをしながら半ば冷ややかな目でパパを見て育っていった。
大いなる何かを拠り所にしていれば、人は日々に感謝しいくらか穏やかに過ごしていけるのではないかというのが私のイメージだったのだが、残念ながらパパはとんでもない短気だった。
短気というか、いちど火がつくと誰にも止められない。カミナリ親父という言葉があるけれど、本当に家にカミナリが落ちたみたいに暴れる。パパの怒鳴り声はアフリカらしい原始の怒りという以外に例えようがなく、DNAに直接届く生命の危機だった。シラフであそこまでリミッターを外せる人間を、私は日本で見たことがない。
それでも普段はとても優しいパパで、とりわけ娘の私にはひどく甘かったと思う。
パパは私を「あわヨンベ」と呼んでいた。よくわからないけどセネガルで言う「あわっち」みたいなニュアンスらしい。パパがいつも歌う「あわヨンベ〜だ〜〜げんきデスカ〜?」という謎のオリジナルソングが今でも耳に残っている。
パパは日本語があまり上手ではなかった。日常の会話で困ることはほとんどなかったけど、込み入った会話はなかなか成立せず、私はパパがどんな人間なのか知ることができなかった。
私の中のパパは「怒ると怖い」の一点に集約されていて、その地雷を踏まずに爪先立ちをして過ごすことが私が家で平和に過ごす方法だった。
中学生のとき、パパとママが離婚して、パパは家の中からいなくなった。教祖様もアザーンも、パパと一緒に家から出て行った。私は家で堂々とチーズ入りのソーセージを食べた。おいしかった。
それでも私はたまにパパの家に遊びに行ったし、誕生日にはディズニーランドに連れて行ってもらった。パパの作るマフェが好きだった。チキンが入った白いネチョネチョの炊き込みご飯みたいなのも好きだった。ディズニーランドには弟と私の友達も一緒に連れて行ってくれたけど、毎年言うことを聞かない弟にカミナリが落ちて、帰りの車はお葬式みたいになった。
あるときパパは腕にできた白い斑点を私に見せて「これができると天国に行けるんだ」と嬉しそうに言った。今の生活より死んだあとのことのほうが大事なの?今すぐファックしてあとで苦しもうってカートコバーンも言ってたよ。
高校生になって、はじめて彼氏ができた。絶対にパパにバレてはいけないと思い、たくさんの架空の友達との予定をストックした。そして、大学に入学した頃、私の努力はお喋りな弟によってあっけなく破壊され、当たり障りのない父娘の関係に冷たい空気が流れはじめた。
この先ずっと、私はこうやってコソコソボーイフレンドを作ったり、夜遊びしたり、ソーセージ食べたり、ソーセージ咥えたり、お酒を飲んだりしなくちゃいけないんだろうか。パパの地雷を踏まないために、自分のしたいことを我慢しなくちゃならないの?もう嫌だ。壊すなら今だ。めちゃくちゃにしちゃおう。
彼氏の一件以来機嫌が悪いパパの前でわざと悪態をついた。
パパは買い物帰りらしく手にパックの卵を持っていた。
まず頭の右側にチョップをお見舞いされた。チョップかよって思った。石刀みたいなチョップだった。私は地面に倒れた。すかさず立ち上がってパパの胸をどついた。またチョップされた。また倒れた。生卵が飛んできた。私はもういちど立ち上がって、助走をつけてパパにドロップキックをお見舞いしてやった。今度は平手打ちされた。鼻血が出た。顔の至近距離で「ビッチ!!!」と怒鳴られた。
私はビッチじゃない。ふざけんな。
私も今まで出したことないような大声で暴言を叫び散らした。私はパパの子だと思った。殴られながらドーパミンが出て笑いが止まらない自分が怖かった。地面に押し付けられて首を絞められて、殺されるかもと思ったらワクワクが抑えられなくなって、やってみろよ!!!!!殺せ!!!!!!と喚き散らした。近所のお婆さんは怯えていた。
一緒にいた友達が警察を呼んでくれて、私とパパは引き剥がされた。双方事情を聞かれ、なだめられ、私は祖父母の家に返された。
友達は泣いていた。私はまだ笑っていた。
その日はパパのチョップのせいで一晩中ひどい頭痛がして、眠れずに近所の公園をヨロヨロと歩き回って、いつの間にか朝になった。
あれからパパは私の話をしなくなったらしい。
私が大学で書いた卒論の教授批評がフランス語で書かれていて、ママがこっそりパパに読んでもらったらしい。
とにかくすごいと書いてあるらしい。
もっと詳しく教えてほしかった。
今もパパは弟にお説教をするとき「亜和は1人でも生きていけるくらい強い。すごい子だ。お前も見習え。女に負けるな。」と言っているらしい。
Twitterを始めたらしいパパにフォローされた。家系ラーメンの写真をあげたらすぐにリムられた。
一昨年は彼氏とアフリカ料理のお店に行ってマフェを食べた。パパの作ってくれたマフェのほうがおいしかった。
夜中の2時ごろ、ベランダに出ると夜勤に出かけるパパの車のヘッドライトが見える。いってらっしゃい、と静かに声をかける。
小さい頃よく歌ってくれた歌の意味を、私はまだ知らない。
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