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世の中に人の来るこそうるさけれ とは言うもののお前ではなし


朝、目が覚めるたびに思う。「今日こそは誰一人とも口をききたくない」と。 

会話という行為には、とてつもない労力がかかる。幼稚園生のとき、家族で通っていた銭湯のおばちゃんに「ここのおふろはあついから、つぎはほかのおふろにいくの」と言った。おばちゃんは申し訳なさそうな顔をして、母はそれに恥ずかしそうに頭を下げていた場面を憶えている。

中学生のとき「一緒にトイレいこ」と声を掛けてきた同級生に「トイレなんてひとりで行けばいいじゃん」と返事をした。その子がとても悲しそうな顔をしたのが見えた。

大学生のとき、棟と棟の、ごく短いあいだの日差しの中で日傘を広げた友達を「そんなの意味ないよ」とからかったら、彼女は気まずそうに微笑んで下を向いてしまった。

昨日、モデルの仕事で初めて会ったクライアントに「緊張してますか?」と聞かれて真顔で「いや全然」と答えてしまい、ハッとしたあと「緊張してないなんて言っちゃだめですよね、ははは」と重ねて余計に失言した。クライアントの乾いた笑い声が聞こえた。

私には昔からそういうところがある。なにも考えずに会話に参加すると、たいがい「失言」するのだ。失言の自覚があるならまだマシなほうで、時には「よし、今日は上手くいったぞ」と満足して帰る途中「あれは酷かったぞ」と言われて、それでもなお理由がわからないこともある。  

ときどき怒られるのは、私がまだ分別のない子どもだからだと思っていたが、どうやらそうでもないらしく、大人になってもたびたび怒られたり悲しまれたりする。

少し前、若手女優の「どうして照明さんになろうと思ったんだろう」という発言がネットで大炎上したときも、私はのんきに「純粋な疑問」として受け止めていた。正直、いまだにこれほど炎上した理由がよくわからない。世間の大多数が怒りを覚えていることを認識しつつも、私の気持ちに同意してくれそうな友人にそれを打ち明けたところ、顔を真っ赤にして説教された。

私はどこかおかしいのだと思う。とりわけ女子からの顰蹙を多く買ってしまうあたり、共感性の欠如とでもいうべきなのだろうか。

なにも考えていなければこの調子の私だが、人間としての生活も20数年目を迎えたからには、少なからず考える機能が身についてきた。  

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「もっと知りたい。こんなとき、貴方になんと伝えようか。もっと聞きたい。貴方はなんて言ってくれるの。」 月2回更新します。

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