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関係性を抜きに主体性を語ることの危険 −中動態に見るコーチングの功罪−

昨日、哲学者の國分功一郎さんがお話しされた「中動態」の話をYouTubeで聴講した。

中動態については創造に関する研究者である井庭崇さんの話に出てきたことがありずっと気になっていたのだが、Kindleで読める本に出会えず今日まで至っていた。

2017年に出版された國分功一郎さんの著書『中動態の世界 意志と責任の考古学』は小林秀雄賞を受賞し、さまざまなメディアにも取り上げられたのでご存知の方も多いかもしれない。

中動態については短い説明を読んで「分かった気」になってはもったいないので、ぜひこのYouTubeを観ていただきたい。

行為と意思と責任


能動態の話とセットで出てきたのが責任の話だ。

能動態・受動態の世界では能動的な行為には意思が伴い、その行為は行為者に帰属させられ、行為の責任は行為者にあるという考え方になる。

それに対して中動態の世界では「非自発的同意」という現象を見出すことができる。というような話が出てきた。

そのときに思い出されたのが「主体性」という言葉だった。

主体性は行為の主体に帰属するのか


10年前、組織開発やマネジメントを目的としたコーチングを学び始めたときにキーワードとなっていたのが「主体性」という言葉だった。

それを英語でアカウンタビリティと呼ぶこともあるが、もともとアカウンタビリティとは説明責任という意味の言葉だ。

それを、ビジネスシーンにおけるコーチングの中で「自ら仕事や事業の責任を引き受けていく意識」や「自分の責任において考え、行動を起こす意識」と位置付けていた。

アカウンタビリティが高いというのは主体性が高い、つまり主体的にものごとに取り組んでいる、ということであり、アカウンタビリティが高い状態の逆の状態をヴィクティム(被害者的)と呼んでいた。

アカウンタビリティという言葉は知らずとも、「主体性」という言葉は企業や組織の中で耳にタコができるほど聞いている、という方も多いのではないだろうか。

「コーチング=主体性を引き出すコミュニケーション」

と説明されることさえある。(組織内での最新のコーチングの活用状況については明るくないが、きっと大きくは変わっていないのではないだろうか)

当たり前のようにわたしたちが使っているこの「主体性」という言葉だが、主体性なるものは本当に存在するのだろうかという疑問がこのビデオを観て湧いてきた。

正確には、「主体性」という言葉から、とある行為を行う意思があたかもその行為者の中に(自発的に、他者と分離した状態で)生まれるものだという誤解が生まれてはいないだろうか、という危惧に近い感覚だ。


実際にわたしたちはさまざまな環境や関係性、経験を通じて今目の前にあることに対する感覚や感情、欲求が湧いてくる。

アイディアなどもそうだが、日々、無意識のうちに目にしているものや体験しているものが膨大にある中で生まれてきたものを、どうして「自分もの」だと言うことができるだろう。

「自ら仕事や事業の責任を引き受けていく意識」なるものを行為の主体および周囲の人は感じるかもしれないが、それは決して、人間関係や環境から切り離された中で生まれるものではない。

責任というのが「立場上引き受けなければならないもの」のことだとすると、もし世界に自分しかいなかったらそもそも「責任を引き受けていく意識」なんてものも存在しえないのではないか。

「主体性」を重んじる環境で生まれるもの


「行為は関係性の中で発生するものだ」

そう言ってしまうと、色々な理由をつけて「やらない」「やる気がない」などと言う人がいる。

だから主体性を持ちましょう、ということが企業の中では掲げられる。

環境や関係性の被害者にならず、自分で意思を持ち、行動を起こしていきましょう。

そう言うと聞こえはいいが、企業が「つべこべ言わずに働く」社員を増やすために設定した評価基準の一つなのではないかという気が、今となってはしてきてしまう。

働きすぎて体調を崩したとしても「あなたが自らの意思でやったのでしょう」と言われる。

自分が主体的にとった行動の責任は自分が負う。

そうして、組織内や社会に起こることの責任をどんどんと分離させていく。

わたしたちは「主体性」という言葉からそんな世界を作り出してはいなかっただろうか。

関係性なしに主体性が語られるとき


コーチングを学んだ管理職は言う。

「部下は主体性が低くて」
「あいつはヴィクティム(被害者的)だ」

そこに水を差すのが、関係性を扱うコーチの役割だ。

「部下の状態をあなたが作っているとするとどうでしょうか」
「もし、もっと主体性が低くなるように仕向けるとすると何をしますか?」


「わたし」と「あなた」の関係性において「あなた」の行為や意思の責任は「あなた」にある。

そんな意識から「わたしたち」という単位に目を向けることを後押しする。

「あなた」のすることが決して「あなた」の中だけで完結しているものではないということに気づいていく。

そこに生まれるのは「わたしたち」という関係性に対する主体性だ。


クライアントをコーチするコーチも自分のコーチと対話をしている。

その対話を通じてコーチも、クライアントとのあいだにある「わたしたち」という関係性に目を向ける。

こうして、関わり合う人たちが関係性をつくる主体者になっていく。


しかし、1対1のコーチをつけることは費用がかかるからと、組織でも個人でもコーチングスキルだけを学ぶことも多い。

その中で「部下(相手)の主体性を高めるには」ということだけ習う。

そうして「主体性の低い相手をどうにかしようとする」という状況が生まれる。

50代以上の人に「コーチ(コーチング)をしています」というと、「コーチング、会社の研修でもあったわー」とあからさまに嫌な顔をされることも多いが、それは「相手の主体性を上げよう」と質問や傾聴をする上司に悩まされたからではないかと想像している。

そこには関係性を見つめる視点の欠けたコーチングがあったのではないだろうか。


自分自身もその状況を生み出す一員となっていることを見つめることなしに誰かの主体性について語るとき、人と人のあいだにはつながりではなく分断が生まれていく。

現在のようにコーチングがさまざまな場面で使われるようになった背景にはコーチングスキルを安価で届けられるようになったということが大きく貢献しているが、その中でひとりひとりと自らがつくり出す「関係性」についての対話を行うことを放棄し、「主体性」だけを一人歩きさせてしまった代償は大きいのではないだろうか。

コーチングという構造の限界


コーチングと言ってもその中にはさまざまな種類があり、中には主として関係性を扱うものもある。

一方で、徹底的に個や自分自身に向き合うということから見えてくるものもあるだろう。

同時に、コーチングにはコーチングという構造そのものが持つ限界もある。


「コーチングを受ける」という言葉、
聴く人、話す人という役割の違い。

これらから生まれるのはまさに能動・受動の関係だ。

同時に、クライアントは受益者であり、コーチは役務提供者であるという確固たる関係性がそこにはある。


しかし、本来、人と人とが関わるというのは「お互いの中に何かが起こる」というものではないだろうか。

もちろんその場および関係性をリードする役割というのは存在するだろう。

そんな中でも、能動・受動の関係がなくなり、役割の境界線が溶け、お互いが対話と関係性の作り手になったとき、そこにいる双方の意識に気づきや変容が起こっていく。

コーチという立場でありながら、その立場がなくなることを目指す。
コーチはそんなパラドックスの中に身を置いている。

中動である(という言葉が適切かは分からないが)可能性を秘めた関係性を、能動・受動の関係に閉じ込めてしまってはいないか。

自分がコーチであり続けるために、クライアントをクライアントであり続けさせてはいないか。

これまでの自分を支えてくれた学びと体験に感謝をし、コーチングという関係性と可能性を信じながらも、さらにその外側にある関係性と可能性にも目を向け続けたい。

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