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再び、海辺の街で

いよいよベッドを出ようと決めるまで、随分と長い間うだうだしていた。
昨日まで滞在していたマラケシュと同じように、この街でも早朝、日が登る随分前に祈りの時間を知らせる歌声が鳴り響く。

今日も確かに歌声を聞いたように思うのだけれど、それがどんな質感だったかもうすでに思い出せない。

マラケシュで耳にしていたその歌声は地鳴りのようで、その後に必ずと行っていいほど長くて重たい夢を見ていたけれど、今日はそんな夢を見なかったということだけ覚えている。

昨日調べたところによると今いるエッサウィラでの日の出の時刻は7時半すぎ。だがすでに(感覚的にはやっとという感じだが)周囲は明るくなってきている。

20分ほど前に、「まだベッドの中にいるね」と、もにゃもにゃつぶやくパートナーを残してベッドを出てシャワーを浴び、テラスに出てきた。昨日到着したエッサウィラでの始めの滞在先にはテラスが二つある。どちらからも50mほど先にあるビーチや周辺の街並みを見渡すことができ、今いる一段高い場所にあるテラスからは360度ほぼ全てを見渡すことができる。

吹き抜ける風。打ち寄せる波。そして飛び回るカモメたち。

昨日18時過ぎにエッサウィラに到着したときには街全体、そして海も霧がかっていて2週間前に日帰り旅行で訪れたときほど爽快な感じはしなかったけれど、(そして今も空は薄曇りだけれど)それでも「ここに来て良かった」と思う。

わたしは海や川のそばが好きなのだ。空気と同じように、水が近くにあることが必要なのだ。

そう気づいたのは砂漠の真ん中の街マラケシュで暮らし始めてほどなくしてからだった。

横浜、福岡、そしてオランダのハーグ。これまで海が近くにある街に暮らしてきたけれど、そこに暮らしているからこそ「海が近い」というのは特別なことではなかった。

今年の7月から8月の間滞在していたギリシャのレロス島ではほぼ毎日のように海で泳いでいて、とても気持ちが良かったけれど、それはレロス島の海が綺麗だったからだろうと思っていた。

もちろん綺麗に越したことはない。

でも、そうでなくともわたしには海や水の近くにいることが必要なのだ。

パートナーとの旅の最初の滞在先として選んだトルコのイズミルもエーゲ海に面した街だった。次に滞在したイスタンブールもアジア側とヨーロッパ側の大陸がぶつかる街だ。

そして今いるエッサウィラはモロッコの中では西側の沿岸部の街ということになる。目の前に広がる海を進んでいくと、その先は南アメリカ大陸だ。

日本地図で見ると端と端で、随分と離れているように見えるアフリカ大陸と南アメリカ大陸だが、アフリカ大陸に来てみるとここからはアジア方面に行くよりもアメリカ方面に行く方が近いということが分かった。

刷り込まれた感覚というのは恐ろしい。
自国が真ん中に来る地図を使い続けるというのは世界に対する大いなる錯覚と誤解を生むだろう。

そんなことを考えているうちに、周囲が明るくなってきた。

今月はレロス島で行っていた(そしてマラケシュでは途絶えてしまっていた)朝のワークアウト(ヨガ・ランニング・筋トレ)を再開したい。

そしてこうして日記を綴ることも。

この半年間、トルコ・ギリシャ・モロッコで様々な体験をしてきた。

けれどそれを日々綴らなかったのは朝の時間の使い方が変わったからという理由だけではないはずだ。(時間ならいくらでもあった)

言葉にすることを手放し、体験の中に身を投げ打った半年間。
それを経てここからまたわたしは何をどう綴るのだろう。

言葉で表現することに限界があることは痛いほど感じている。そして言葉にしようとすることで失われてしまうこともあるように思う。

それでも、「わたしは本当に言葉の限界に行き着いたのだろうか」と思うと、まだまだだという答えが迷わず返ってくる。

限界を感じたものに再び向き合い、自分が限界だと思ったものがいかに狭く、その先に無限の知らない世界が広がるのだということをこれから体験していくことになるだろう。2021.10.08 Fri 7:43 Morocco Essaouira

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