記憶を通さない体験、匂いのない海
テラスにパソコンを持ってやってくると、テラスに置いてあるテーブルと椅子が湿っていた。海沿いではこれだけ湿気があることが普通なのだろうか。そう考えながら磯の匂いがしないことに気づく。この町では、視覚を通じた海や触覚を通じた海は感じるが嗅覚では海を感じないのだ。
そう言えば、7月8月と2ヶ月間を過ごしたギリシャのレロス島の海も、磯の匂いがしなかった。だから余計に「透明で美しい、写真のような海」という印象を持ったのかもしれない。
わたしの中の海というのは磯の匂いがする海であり、それは小さい頃に出会った海がそうだったということだ。
そんな風に、知らない場所では体験の次元が一つ減るような感覚がある。それで何か不都合や物足りなさがあるわけではない。むしろ新鮮にそこにあるものを味わっているとも言える。そうだ、体験を支える次元の一つは記憶なのだ。
だから、季節の記憶がない初めて訪れる街や国では「ああ、秋がやってきているなあ」などと感じることがない。
日本を離れて約4年半、そんな風に生きているから記憶を土台にして物事を見ることはだいぶ減ったように思う。
そんな中でも日本の文化の中で染み込んだ物の見方に関する慣習は根深く世界の見方に影響を与えている。
つい数十分前まではまだ暗かったのにすっかり空が明るくなった。
波打つ海。そしてオレンジから白へと色を変えていく山際を眺めるのが気持ちがいい。
9月に滞在していたマラケシュではちっとも朝起きることができなかったのにこの違いは何だろう。マラケシュの滞在先でも広いテラスがあって、そこで日記を書くこともヨガをすることもできたはずなのに。
この薄ぼんやりした景色を作り出すのは湿気だろうか。
マラケシュはいつも晴れだった。こんな「あわい」の世界を感じられなかったのかもしれない。
東の空に、白い線が浮かび上がる。今日もどこかに向かう人がいる。
わたしも一旦パソコンを閉じ、からだを動かし始めることにする。
2021.10.9 Sat 7:34 Morocco Essaouira
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