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「料理は好きか」という厄介な質問について


今朝は白湯を飲んだ後に昨晩キッチンに残していた洗い物を片付けながら料理について考えていた。正確には「料理は好きか」という質問についてだ。これに対して私は、「苦手だ」と答えることにしている。

そう答える理由は、実際に料理がさほど得意ではないということもあるが、多くの場合「料理は好きか」と聞く人はどちらかというと料理好きなことが多く、聞かれた通りの「好きか(嫌いか)」の軸で「あまり好きではない」もしくは「嫌いだ」と答えると、なんとなく相手の好きなものを否定したような感じになってしまうかなという想像がある。

そしてもう一つ、私の中に「女性は料理好き(もしくは料理上手)であるべきだ」という枠組みがあって、それに対して「好きではない」と答えるのはなんだか気が引けるのだと思う。(これは「子どもは好きか」という質問についても同じ感覚を持っている女性はいるのではないかと思う)

小さい頃から運動も勉強も、工作や手芸などのものをつくることも好きだったし得意だったが、料理にはあまり興味が向かなかった。幼稚園のときにクリスマス会のようなものでデザートを使うために包丁を使う機会があり、私はそのとき指先を切ってしまい、また同じクラスの男の子が(おそらく指を落とす)怪我をしたことがあったので、それがきっかけで包丁を扱うのが怖かったというのはあるが、そんなトラウマめいたものが根本的な原因ではなく、ただ自分の嗜好には合わなかったというだけだと思う。

それでもあまりに料理に関して無知な私を見かねた母が、私が大学生になったときに料理教室の費用を出してくれて、1年ほど料理教室に通った。そのときに包丁の使い方をきちんと習ったこともあり、今は包丁が怖いと思うこともない。「冷蔵庫の中身で美味しいものを作る」というクリエイティビティはないが、「とりあえず食べれるものをつくる」ということはできるし、料理本の通りに作ればある程度美味しい料理ができるということもわかったので料理教室に通ってと良かったとは思っている。

しかし、料理が好きかというと特段そうではない。私はそれは例えば「スノボが好きか」という話に近いんじゃないかと思うのだが、「スノボが好きか」という質問に対して「苦手です」と答えると「ああそうなのね」という感じになるが、なぜだが料理に関しては「苦手です」と答えると「大丈夫だよ」「できるはずだよ」ということになることが多いように思う。

料理が特段好きではない人はわざわざそんなことは聞いてこないので、「料理が好きか」と聞く人の多くは料理好きで料理好きな人にとっては「大丈夫」「できる」なのかもしれないが、「苦手」と答えたのは質問されたからであって「苦手だけどどうしよう」という相談をしているわけではない。これが「好きではない」と答えたら、話の流れは変わるのだろうか。「気を悪くさせてしまうかな」というのは取り越し苦労であって、料理好きの人にもあまり気にされないだろうか。

私の中では「料理は好きか」という質問は「お酒は好きか」という質問にも似ている。結論としては「特段好きではないが、相手によっては楽しい」ということだと思う。「お酒そのものが大好きだ!」「一人でも飲む!」という人を除いては、「お酒」というのは「お酒を飲む場」とセットになって、誰と飲むか、どんな風に飲むかによって、好き・嫌いや楽しい・楽しくないを感じるのではないだろうか。

料理も私の中では、作る場と食べる場がセットになっており、好きな人と一緒であれば作るのも食べるのも楽しい時間になる。「作るのも」と言っても、やはり特段得意なわけではないので、パートナーと料理をするときも私はひやかし程度に野菜を切り、あとは調味料やお皿の準備をしたり、使い終わった調理器具を洗ったりと、アシスタント的なことしかしないのだが、それでも「エンジョイキッチンは楽しいねえ」と言いながら手際よく料理をし、私が「美味しい美味しい」とごはんを食べるのを楽しそうに見守ってくれるパートナーと出会えたことは本当に幸せなことだと思っている。

料理は一つの例ではあるが、慣習の中で身につけてきた「当たり前」が、自分にとっては呪縛となっているものがまだいくつかあるように思う。ちょっとしたことが気になるということは、「できたほうがいいのだろうな」とどこか引け目に思う自分がいるということなのだろう。

お酒については「お酒は好きですか」という質問に対して「飲みません」と答えるようになってだいぶシンプルになった。料理についても好き・嫌いや得意・苦手ではなく「しません」と答えるとそれで済むようになるだろうか。

「これまでは何事も正直に全てを伝えるがのがいい。それが心と言葉を一致させることだ」と思ってきたが、最近、なんでもかんでも正直に全てを伝える必要はないんじゃないかという気がしてきてもいる。自分自身に対しては正直でありながら、何をどう伝えるかは選別をする。それを、「本音を言わない大人」になるのではない形でできるだろうか。それができるようになれば、もっと違う世界が見えてくるのだろうか。

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