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結局は自分次第

少し前にnoteでこんな記事を書いた。

facebookの利用解除をするとメッセンジャーだけ使える状態になると知ったので、それで十分だなと思って利用解除の手続きをした。

もともと半年に1回くらいの生存報告に使っていただけだったが、利用解除の手続きをしたらどこか心が軽やかになって、やってよかったなあなんて思っていた。

しかしその後も、久しぶりに連絡をいただく何人かの方に「facebook見てます!嬉野いつか行きたいです!」といったメッセージをいただいていたので、「利用解除をするとこれまでの投稿が見れなくなると思っていたけれど、そうでもないんだな」なんてことを考えていた。

そんな中、年明けから参加することにした講座で連絡用にfacebookページを活用するため申込時点で個人ページのURLを記載しなければならず、そもそも個人ページは自分で見れるのかしらと思ってログインしてみたところ・・・

普通に見れた。

というか、利用解除さえしていなかったみたいだ。

手続きの途中で離脱してしまったのか理由はよくわからないけれど、とにかく特に通常と変わらない状態になっていた。

だとすると、あの心が軽やかになった感覚は何だったんだろう。

だって、現実は何も変わっていないのだから。

利用解除をしていなかったと知ったけれど、今は利用解除をしていると思っていたときと同じ感覚で居続けている。

「フィルターバブル」という言葉があるけれど

フィルターバブル:インターネットの検索サイトが提供するアルゴリズムが、各ユーザーが見たくないような情報を遮断する機能

Wikipediaより

わたしたちはそもそも自分でもフィルターを持っていて、それを通して世界を見ている。

どんな情報を見るかも、どんな風に世界を見るかも、その結果どんなふうに感じるかも結局は自分次第。

それでも脳にドーパミンを出させて何らかのバブルの中の滞留時間を伸ばそうとするのがインターネットの世界に限らず世の中を席巻するのテクノロジーなわけだが、

まずはそういう仕組みがあるということ、
そして自分自身がフィルターを通して世界を見ているということを自覚することが大切だなあとつくづく感じる。

自分のフィルターに気づきながら意図的に選択をしていくことも、情報刺激に飲み込まれないようにすることも、強い意志が必要だが、それはどうやら今に始まったことではないようだ。

サイコシンセシスの創始者であるロベルト・アサジョーリが『the Act of will(邦題:意志のはたらき)』を出版したのは1974年、もう50年近く前のこと。

もちろんその頃はインターネットはまだ今のような形で世界に広がってはいないのだが、意志をはたらかせることが放っておいてできることではないということをアサジョーリは実感していたのだろう。

インターネットがない頃は人はテレビの向こうに心を持っていかれ、テレビがない頃は新聞の向こうに持っていかれていたと以前何かで読んだことがあるが、新聞がない頃もきっと隣の誰がああだとか村の誰がこうだとか、そんなことにばかり気がいっていたに違いない。

生存のためにコミュニティの中で生きる必要があったのだろうと思うけれど、何事も過ぎたるは及ばざるがごとし。

人がどうしているか、人からどう見られるかを気にして自分の人生がなおざりになる世界の状況に、自分自身のしてきた選択に、そろそろひとりひとりがプロテスト(意義申し立て)してもいいのではという気がしている。

自分を中心に置いたらただの自己中になるんじゃないのと思うかもしれないけれど、そうとは限らない。

わたしたちは自分を深く見つめるごとに、世界を深く見つめられるようになる力を持っている。

エゴセントリック(自我中心)でもエスノセントリック(自民族中心)でもない、コスモセントリック(宇宙中心)となる可能性を持っている。

「自分」は「他者」であり、「自然」であり、「世界」であり「宇宙」だと感じるようになる。

宇宙と一体になるにつれて「自己」は溶けていくのだけれど、一体になる前に自己をとことん突き詰めるからこそ、そこにあるエゴに気づき、切ってもきれない他者や宇宙とのつながりに気づくのではないかと思う。

自分の中に小さな宇宙があると知ったら、他者の中の宇宙も認めざるをえない。

結局のところ世界をどう見るかは、自分の中の宇宙の深淵さをどれだけ見つめられているか次第だと感じる。

だからもし今、自分の外側を見て何かしっくりこないと感じることがあるのなら、自分の内側を見つめるときだというサインなのではと思う。

見えるものは鏡に映った世界。

鏡の中の寝癖を直そうとしても直せないというのはよくあるたとえ話だが、鏡を見ている自分自身と自分にかかったフィルターに気づくことができたら、世界は随分とアップデートされるんじゃないかなと、そんなことを考えている。



長らくnoteにいろいろなものを書き散らしてきましたが、なんとなく今は誰かに向けたおたよりのように書くのがちょうどいい気がしています。

noteを始めたときは明確に人が読むことを前提として実践から学んだことをまとめたものと極私的なジャーナリングをそれぞれ分けて書いていたものが、だんだんと混ざり合うようになってきて。。。

ここ最近は、ライトなジャーナリングの体で自分と誰かに向けたものを載せてきていたけど、もっと私的で曖昧で流れゆくようなものもそのまま残しておきたいなと感じるようになっていました。

ジャーナリングは基本的には自分のためにするものだけど、人生の旅路をあゆんでいる人のジャーナリングをたまにのぞいて、のぞかれて、ゆるやかに何かが交わることが心地いい。

そんな中ジャーナル仲間が教えてくれた場所がとてもしっくり来たので、今後はジャーナルはそちらにストック残していこうかなと思っています。

なのであの私的なジャーナルが好きだったわという稀有な方はそちらを覗きにいらしてください。

noteの位置付けはまだ検討中ですが当面は、誰かへのおたよりを綴ろうかなと思っています。

「です・ます」よりもテンポ良く書けるので「awai 風のたより」を除いては引き続き「だ・である」調になるだろうけれど、基本的には誰かへのおたよりです。

個人的なメッセージではなく、「あなたのことを思い出したよ」って伝えたくなることもあります。

「あなたの想いを受け取ったよ」「あなたの存在を感じたよ」っていうことをただ伝えたくなる。

セッションのあとはいつもちょっとしたおたよりのようなメールをお送りしていますが、わたしは結局のところ「あなたのいのちを感じたよ」「いのちといのちがであったよ」ということを伝えたいんだろうな。

何かの拍子に思い出してメールをもらえることもとてもうれしい。

今だに超アナログですが、「誰か」とか「みんな」とかではく、「あなた」と「わたし」で出会っていきたいんだろうなとそんなことを思います。

パートナーシップのこととか、人生のボーナスタイムのこととか、今でも思い出す甘酸っぱい恋のこととか、いまだに分かったようで分からない愛のこととか、どこかに綴っておきたいけれど、どこに置くのがいいんでしょうね。

引き続きいろんなところにいろんな形で書き散らかしていくかと思いますが、ゆるやかによき形で近づいたり遠のいたりしていけるといいなと思っています。

このページをご覧くださってありがとうございます。あなたの心の底にあるものと何かつながることがあれば嬉しいです。言葉と言葉にならないものたちに静かに向き合い続けるために、贈りものは心と体を整えることに役立てさせていただきます。