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今に溶ける

今朝は随分と早い時間に一度目が覚めた。その前も、そしてその後も夢を見たように思うが、もうその名残さえも今は感じられない。あるのは「夢がそこにあった」という感覚だ。これを、名残と呼ぶこともできるだろうか。

今日は久しぶりに1日予定のない、休養日だ。

と言っても、普段から1日あたりの予定を最大3件(できれば2件が望ましく、1件だとなお良い)としているため、毎日さほど時間や物事に追われているわけではないが、スケジュール帳を辿り、今日より以前に1日予定がなかった日が3週間前だったことを確認し、ここ数週間、大きく流れが変わっていることを実感している。

それは自分自身を世界に開いた結果でもあって、それだけ僅かでも還元しているものがあるかもしれないということだが、それでも絶対的な静けさというのが自分の中には必要なのだ。

そう考えながら、瞬間に生きることの難しさを思う。

どんなに予定があったとしても、それを気にせず、目の前のことに集中すればいいものの、そうはいかないということだ。

瞬間を生きるということについての感覚も大いに変化している。


「今ここが大事」というようなことは振り返れば20代後半頃から感じるようになっていた。入院していた祖父のお見舞いにいったときに「どんな人生を送っても最後に見るのはベッドからの景色なのだ」ということを感じたときに、「未来のために生きる」ということへの疑問を強く感じた。

その後、瞑想の修行などにも行き「今ここ」への意識はますます強くなっていったけれど、今思えばそれはどこか刹那的で、大いなる時間の流れとは切り離された「今ここ」だったように思う。

現在は「今ここ」に対して、少し違う感覚がある。

何と言えばいいだろう。それは「わたし」のものであって、「わたし」のものではない。様々な生き物や時間とつながる「わたし」として生きる、悠久のとき。それが「今ここ」なのだ。

つまりこれは、「わたし」というものに対する認識が変わったということなのだろう。

矮小化された「わたし」ではなく、宇宙に溶け込んだ「わたし」。

そんなわたしとして、今いる景色を見たとき、全ては必然であり偶然であり、未然でもあるという気がしてくる。

風の音に混じる鳥の声を聴きながら、「聴いているわたし」はもはやどこにもいないということに気づく。2020.6.28 Sun 8:48 Den Haag

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