「仕方ない」と済ます加担
海陽町のギャラリーで開催中の、海外体験記を集めた企画展に参加している。世代の違う10名以上の人々の、海外で見聞きしたことがずらりと並び、興味深い。
これまでに何度か海外を旅した。記憶に残る旅はいくつかあるが、大学生の時にポーランドを訪れたことはよく覚えている。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の見学が目的だった。子どもの頃にアンネ・フランクの伝記を読んでから、いつか行ってみたいと思っていた。悲惨な中でも、最後までけなげに生き抜いたとされるアンネに憧れていたのかもしれない。
2月の寒い日で、足元は雪でぬかるんでいた。唯一の日本人公認ガイド、中谷剛氏の案内で広い敷地内を歩いた。被収容者が到着後すぐに奪われた靴や眼鏡、刈り取られた髪の毛の山などが展示されている。一部が当時のまま残るバラック群や、証拠隠滅のためにナチスが破壊したというガス室の残骸が雪の中で息を潜めていた。
中谷氏は、アウシュヴィッツは人間の「可能性」を表していると説明した。普段肯定的に使われるこの言葉が、「人間が多くの人を殺すことができる」という意味で使われることに私は驚いた。そしてアンネへのロマンは粉砕され、彼女を盾に隠していた自分の可能性に気づかされた。当時私が生きていたら、この殺戮に加担したかもしれない。なんとなく為政者を支持し、連行される人々を横目に日々を送ることで。仕方ないと言って私は目を瞑るだろう。でないと自分が殺される…。
あれから13年経った。私はいまだにその可能性を自覚する。私は子どもの泣き声に耳をふさいだり、噂に流されて他人を貶したりするかもしれない。子どもは虐待されているかもしれず、中傷に苦しんだ人が自殺を図るかもしれないのに。私は自分を守るために誰かを追い詰めたのにも気づかず、痛ましい事件を伝えるニュースに胸を傷めるのだろう。
可能性を自覚することは、「私は愚かな人間だから、人を傷つけても仕方ない」という言い訳になることさえある。だがそれは裏返せば「私のような愚かな他者から、私自身が傷つけられても仕方ない」ということだ。結局自分を守るためには、可能性への言い訳を潰していくしかないのかもしれない。
(2019年2月17日 徳島新聞朝刊掲載)
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