#MeToo
コートの下に何も着ていない男の人を、今まで2回見たことがある。いずれも小中学生の頃の話である。夕方のグラウンドや、墓地の東屋に彼らは現れた。周囲に大人はおらず、私は友人たちと走って逃げた。見せられる意味が分からぬ混乱の中、これは異常事態だと感じていた。
…という出来事を、私は#MeTooを見るまですっかり忘れていた。これは性的被害をSNS上で告発する際に添える言葉だ。私がはっきりと#MeTooを認識したのは昨年末、作家のはあちゅうさんによる告白を読んだときだ。その後、ジャーナリストの伊藤詩織さんが自身のレイプ被害について著した本も読んだ。
彼女たちの被害は、権力や上下関係が絡みついた壮絶なものだ。そして、それは日常生活の中で起きている。二人の告白を読み、私は自分の日常の思い返した。そしてあの出来事に突き当たった。
当時、身近な遊び場でそんなことが起こるとは思わないし、そもそもそういう種類の恐怖があることを知らなかった。けれど大したことではないと自分に言い聞かせ、そのうち忘れてしまった。
大したことないことない、と20年以上たった今ようやく思える。あのとき私は怖かったのだ。
#MeToo という言葉は沈んでいた被害を汲み上げていく。なかったことにしていた恐怖を認識させ、被害者の声に光を当てる。#MeTooをたどった先には、世界中で同じように苦しんでいる人がいる。この言葉は文字通り、私たちはひとりではないことを教えてくれる。
(2018年2月18日 徳島新聞朝刊掲載)
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