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「惑ふ水底、釣り灯籠」第四話


 その日の昼間、翼妃はある事実に気付いた。

 ――白龍と買った面を付けていると、周囲の人間に存在を気付かれない。

 白龍に買ってもらったものを部屋にある壺の奥にずっと隠していた翼妃は、柊水や屋敷の者がいない時間帯を狙ってこっそり手毬などの玩具を取り出し遊んだ。

 主に絹や紐などの素材を用いて繊細な手縫いで作られたであろう紅色の手毬は、装飾も拘られていてお気に入りだった。勿体なくて外では使えなかったが、時折壺から取り出して眺めるのが好きだった。

 試しに他のものも並べてみようとお面も出した翼妃は、そう言えばこれを付けて屋敷の者に話しかけろと白龍に言われたことを思い出し、面を付けて通りすがりの使用人に声をかけてみた。使用人は無反応だった。

 いつもは無視してくるにしてもこちらを一瞥して不快そうに眉を寄せるのに、完全に翼妃の存在が見えていないような様子だった。他の使用人にも話しかけたが同様だった。

 翼妃は嬉しくなり、お面を付けて普段は行けない屋敷の様々な場所を探索した。茶室や書斎、座敷、台所まで初めて見ることができた。その広さはおそらく一般の家――翼妃が昔住んでいた家の数倍はあり、この屋敷の豪華さを思い知らされた。そもそも翼妃のいた集落にある家には、茶室も書斎もなかった。神鎮の家系は、庶民よりも文化的な生活をしているのだろう。

「いい加減あの忌み子の鍛錬は我々にお任せ下さい」

 面を付けたまま廊下を歩いていると、ある部屋の中から“忌み子”という単語が聞こえてきたため思わず立ち止まる。襖が少し開いていたのでこっそりとその隙間から中を覗き込んだ。この面を付けている限り、襖を動かさなければこちらの存在には気付かれないはずだ。

 中に居るのは昔翼妃の鍛錬を担当していたこの屋敷の神鎮の一人と、柊水だった。もう一人の神鎮は柊水よりも三十歳は年上だろう。しかし、柊水は年上相手でも物怖じしない様子だ。少しも姿勢を正さずに体を倒して寛いでいる。

「お前、しつこいね。そんなに翼妃ちゃんを殺すのが好き? 酔狂なやつ」
「貴方様は次期ご当主です。あのような下劣な者のお相手をする必要はない」
「下劣? 翼妃ちゃんが?」

 柊水が薄く笑ってゆっくりと問いかけると、もう一人の神鎮が青ざめぐっと黙り込んだ。何十歳も年上の大人の人が柊水に怯える様子は何だか不思議に思えた。

「翼妃ちゃんを下劣だと言っていいのも、踏み躙っていいのも、あの心を手折っていいのも、僕だけだよ」
「っしかし! 貴方がしているのは“鍛錬”ではない! 我々は忌み子の力を確認するため定期的に鍛錬をしなければならないのです。これは神に捧げる儀式です。歴史的に見ても行われてきたことです。それは柊水様だってご存知のはずです。このような生温いことを続けていて龍神様がお怒りになったらどうするのですか。死なない程度の暴力を鍛錬とは言いません」
「翼妃ちゃんを傷付ければいいんでしょ。一応儀式の形にはなっているはずだよ」

 いつしか柊水が行うようになった鍛錬。あれは神鎮たちの間で意図的に決めたことではなく、柊水が無理を言って行っていたことのようだ。

(……何なの?)

 翼妃は不審に思った。そこまでして翼妃を自らの手で苦しめたいのか、それとも――。

 考え込んでいたその時、ふと柊水の二つの眼がゆっくりとこちらに向けられる。ぞくりと寒気が走った。

「――そこに誰か居るの?」

 気付かれた。神鎮の誰も気付かなかった翼妃の存在に彼だけが気付いた。翼妃の指先が震える。

 もう一人の神鎮も翼妃の方を見てくるが、難しい顔をしてまた柊水に向き直る。

「誰もいないではありませんか。話を逸らすのはおやめください」

 やはり他には見えていない。翼妃は急いで走り出し、その部屋から遠ざかった。

 翼妃の姿が完全に見えていたわけではないだろうが、気配は感じ取られたのだ。柊水は他の神鎮よりも優れている。だからこそ次期当主なのだ。その事実をこんな場面で思い知らされるとは思わなかった。

 このお面も万能ではない。柊水には気を付けなければならないと翼妃は思う。

 ◆

 その後、翼妃は蔵で管理されている古い書物をこっそりと持ち出し、部屋で読み漁った。復讐をすると言っても異能力を持つ神鎮たちに自分一人で太刀打ちできるとは思えない。神鎮の弱点を焙り出すため、復讐のための手掛かりを得るため、隅から隅まで書物に目を通した。柊水には頑なに廻神家の歴史や龍神のことについて知ろうとすることを許されていなかったため、翼妃にとってはどれも新鮮な情報だった。

 庭の川の音が聞こえる畳の部屋で夜遅くまで灯りをつけて書物を読んでいた翼妃は、外から足音がしたのに気付いて振り返る。

 卯の花色の着物を着た月白の髪の男性が月明かりに照らされている――白龍だった。

「こんばんは。月の綺麗な夜だな」

 翼妃は書物を閉じて立ち上がり、とたとたと移動して白龍を迎えた。二人で庭を眺める形で並んで縁側に座る。

「早速会いに来てくれたの?」
「お前が会いたいと言うからな」

 いつの間にか翼妃にとって白龍が亡くなった兄の代わりのような存在になっていた。屋敷の人間にどんなに酷いことをされても、白龍と話せると思うと耐えられた。

「白龍、このお面凄いね」
「気に入ったか?」
「うん。神様は何でもできるんだね」
「“何でも”は少し違うな。あまり現《うつつ》には積極的に干渉できない。俺にできるのは、物や人に力を与えたり、自然を動かしたり、生死を操作したりすることだけだ」
「十分凄いと思うけど……」

 目の前に居る美しい男性がそのような強大な力を持っているという実感が湧かない。しかし、生死を操作できるということは……と、翼妃はふと良からぬ希望を抱いてしまった。

「――白龍は、その気になればこの屋敷の神鎮たちを殺せるってこと?」

 そう口にすると、白龍との間で長い沈黙が走った。翼妃は遅れてはっとした。自分は何を言っているのだと。

「……ごめんなさい。何でもない」

 発言を撤回して俯いた翼妃の隣で、白龍がようやく口を開く。

「神鎮と神は古来より契約を結び、協力し合って生きてきた。神鎮の家系の者に手を出すことは如何なる神にも許されていない。神鎮の家系の者たちは、我々が唯一生命を脅かすことのできない人間だ」
「……」

 それを残念に思った自分と、いつの間にかこんなにも廻神家への憎悪が蓄積していた自分に驚いた。翼妃はこんなにも他人を憎んでいる自分が醜いように感じ、そんな姿を少しでも白龍に見せてしまったことを恥ずかしく思った。

「……今日は、もう寝る」
「一緒に寝るか?」

 立ち上がろうとした翼妃の手首を掴み、白龍が甘く囁いてくる。白龍が急に触れてきたことに何故か動揺してしまった翼妃は、慌ててその手を振り払った。

「大丈夫だよ。一人で眠れないほど子供じゃない」

 まだ小さな体の翼妃がそんなことを言うのが可笑しかったのか、白龍はくっくっと喉を鳴らして笑った。

「では、お前が眠りにつくまでは傍に居てやろう」

 そしてそう言って、部屋の中にある布団に入った翼妃の横に座り直した。

 実を言うと、昨日あの悪夢を見たせいで翼妃は少しだけ眠るのが怖かった。また無意識のうちに奥宮まで歩いていってしまうのではないかという不安があった。そんな翼妃の気持ちを全て見透かすように、白龍は躊躇いなく傍にいることを提案してくれたのだ。

 布団の横のちゃぶ台の上に置かれた書物に気付いた白龍が問いかけてくる。

「何を読んでいたのだ」
「白龍についてのことだよ」
「俺?」
「この神社の起源とか調べてた」

 ふと書物の内容を思い出す。そうだ、白龍なら知っているはずだ、と。

 ――白龍、黒龍ってどんな龍だった?

 しかし、口を開くまではいいが、何故かその問いを言葉にできなかった。“黒龍”という名を出そうとすれば息が詰まるような心地がした。翼妃は黙り込み、白龍に其の質問を投げかけるのはやめにすることにした。

 それを聞けば、自分と白龍の間の何かが変わってしまう気がして。

 目を覚ますと白龍は消えていた。悪夢は見なかった。

 朝の光が障子越しに入ってくる。目を擦りながら布団から起き上がり、ふとちゃぶ台の上に書物を置きっぱなしであることに気付いた。面を被り、慌てて蔵に戻しに行く。屋敷の使用人に見つかっては大変だ。

 蔵は変わらず錠がかけられていなかった。見回りの者がここまでは来ていないのだ。長い間放置されているのだろう。こっそり持ち出した書物を元の場所に戻して戸を閉めた。

 庭園の中の石組みの小径を歩いて部屋へ戻る。草花の香りと風の爽やかさが心地よく、朝露に濡れた草地がまるで緑色の宝石のように輝いている。遠くには山々の輪郭が見える良い朝だった。

 履物を脱いで屋敷に上がり、自室の襖を開けた時――中に既に誰かが居た。

 そろそろ面を外そうと紐を解いていたところだったので、思わぬ存在に驚いて面を手から落としてしまった。からんと面が床にぶつかる音がする。部屋に風が入り込み、自室の壁に掛けられた掛け軸が揺れる。

 ゆっくりと翼妃を振り返ったその人物は、柊水だった。その前方には割れた壺と散乱した玩具がある。全て白龍と宿場町に行った時に買った物だ。翼妃は絶句した。

「なあに? これ」

 柊水が、不気味な程に優しく笑いかけてくる。硬直していると、柊水が床に散らばった物の一つである手毬を踏み付けた。

「随分と上質な手毬だね。翼妃ちゃんはこんな物を買える身分じゃないでしょう」

 宿場町からの帰り道、白龍に手毬は民の間で身分を誇示する物でもあると聞いた。手毬は装飾が豪華な物ほど高価で、庶民にはなかなか手が出せないのだと。翼妃が選んだ手毬はとても上質だった。外の世界に出たことがなく金銭感覚のない翼妃には分からなかったが、もしかしたら凄く高い買い物だったのかもしれないと後から申し訳なく思っていた。

 貨幣を持たされていないはずの翼妃がそんな物を所持しているのは、柊水からしてみれば明らかに不自然だろう。

 翼妃は思わず柊水の足に飛び付き、無理矢理手毬から足を退かせた。白龍が翼妃のために買ってくれた物だ。粗末に扱ってほしくなかった。――しかしすぐに、深く考えるより先に体が動いてしまったことを後悔した。柊水は翼妃の大事な物ほど奪っていく。この手毬が大事だと悟らせるべきではない。

 おそるおそる柊水を見上げると、柊水は冷たい目で翼妃を見下ろしていた。

「……龍神の香《こう》の匂いがする」

 ぽつりと呟かれたその言葉が恐ろしく、慌てて柊水から離れる。昨夜眠るまで白龍は翼妃の傍にいた。匂いが移っていてもおかしくはない。

「龍神と会ってる?」

 何も答えられず黙り込む。翼妃も薄々感じているのだ。柊水にとって、龍神と自分が顔を合わせることは地雷だと。

「――また閉じ込められたい?」

 黙っていると、脅しのようにそう聞かれた。

 瞬時に幼少期の記憶が蘇る。狭い物置に閉じ込められ、米俵と共に泣きながら眠った嫌な思い出。あの時の恐怖を思い出すと、翼妃は柊水に逆らうことができなかった。

「……会っ、てる……」

 俯きながら掠れた声で答えた次の瞬間、ちっと柊水の忌々しげな舌打ちが聞こえた。柊水は翼妃の胸倉を掴み、無理矢理顔を上げさせてくる。

「言ったよね。君は僕の玩具だって」

 目の前にあるのはぞっとするほど美しい顔。こんなにも綺麗な見た目をしているのに、中身は暴力や脅しで言うことを聞かせようとする凶悪な男なのだから、人は見かけに依らない。

「翼妃ちゃんはいつの間に、僕の言うことが聞けない悪い子になっちゃったのかな」
「龍神と会うななんて、言われてない……」

 途切れ途切れ、小さな声で必死に言い返した。怖くて体が震えていた。日頃から心では強気に思っていても、柊水に付けられた心の傷は翼妃を蝕み弱気にさせる。実際に柊水を前にした時は特にそうだ。

「ああ、そう。もう龍神に絆されちゃったわけだ」

 口答えしたのが気に食わなかったのか蹴り飛ばされた。床に頭がぶつかり痛みが走る。柊水は恐怖でやり返せない翼妃の髪を引っ張り、屈んで目線を合わせて問うてくる。

「龍神にはどんな風に遊ばれた?」

 柊水は一切笑っていない。微塵も口角を上げずに、無表情で翼妃を見つめている。

「あれは相当鬼畜でしょ。もう体は触られた?」
「……白龍はそんなことしない」
「ふーん? 翼妃ちゃんは頭が弱いから、簡単に他者を信じてしまうんだね。悪い男は悪い顔をして寄ってくるわけじゃないんだよ?」

 絶望しているうちに信じられないことを告げられる。

「忌み子は代々龍神の慰み物だよ。その小さな身体で龍神を受け入れる覚悟がないなら、容易く気を許さないことだね」

 ――慰み物。一時の愉しみのために弄ばれる者。主に性的対象とされる者を言う。

 そんなことを言われても簡単には呑み込めない。白龍は常に優しく、妹のように翼妃を可愛がってくれる。性的な目で見ている素振りを見せたことは一度もない。

「嘘つき……そんなこと信じない」
「幼い頃から一緒に居た僕よりも龍神を信じるの?」
「白龍はここへ来るもっと前から私のこと守ってくれてた!」

 そう叫ぶと柊水の動きが止まった。そしてぷっと馬鹿にしたように嘲笑してくる。

「本当、お気楽な頭」

 片側の口角を上げてそう言う柊水が、顔は整っているのに醜く見えた。興が冷めたのか、柊水は翼妃から離れて手毬や他の玩具を拾い上げる。

「これは燃やしておくから。龍神に絆されるほど退屈していたのなら今後は君専属の使用人を付けるよ」
「嘘……やめてよ。お願い、やめて」

 それは白龍との大切な思い出の品なのに――。それに専属の使用人なんて、見張りと同じだ。

「言ったよね。翼妃ちゃんの大事なものは、一つ残らず奪ってあげるって」

 嗚呼、結局こうなるのか。

 宿場町で買ってもらった物を全て奪われ、一人畳の間に残された翼妃は、乱された寝間着の裾をくしゃりと握った。


 数日後、どう手筈を整えたのか、新しい使用人が翼妃の元にやってきた。名前を鹿乃子《かのこ》と言った。

 鹿乃子は元々出雲國いずものくにに住んでいた若い女性で、なんと地属性の神社の元神鎮らしい。翼妃はまず柊水がそのような身分の高い人を使用人として呼んできたことに驚いた。

 玉龍大社とは違い地属性の神を祀る神社では神鎮の権利をうまく扱える上位三名以外の神鎮を家から追い出す風習があるそうだ。完全なる実力主義の家系で、それ故競争も激しいのだとか。鹿乃子はその争いに負け、家を追い出されて貧しい暮らしをしていた。それなら招きやすいだろう。それは分かるのだが、何故わざわざ元神鎮なのかと疑問に思った翼妃に、柊水は笑って言った。

「地属性の神と水属性の神は相性が悪いんだよ。地の神の力を利用するあの神鎮が傍に居れば龍神は翼妃ちゃんの元に降りてこれない」

 どうやら柊水は、白龍ですら翼妃から奪おうとしているようだった。

 ――最初、翼妃は期待していなかった。柊水が用意した専属の使用人だ。どれだけ酷い人間だろうと不安に思ってすらいた。

 しかし、鹿乃子は異文化を持つ外部から来たためか翼妃の知るどの使用人とも違っていた。

 これまで食事は残飯のようなものしか与えられていなかったところを、必ず一汁一菜を確保して持ってきてくれた。質素で量は少ないが、麦飯もまだ温かいうちに持ってきてくれるので、以前よりずっと食事が楽しくなった。

 鹿乃子はこの屋敷での翼妃の扱いに驚いたようで、翼妃をとても気にかけてくれている。他の人間に気付かれないように食事を運んできてくれたり、厳しい鍛錬で傷を負った翼妃に包帯を巻いてくれたりと、優しい女性だった。

「……私は川に体を浸けると何でも治ってしまう化け物なの。今日も夜に水で体を清める予定だから、こういうのは必要ないよ」

 翼妃の斬りつけられた腹に必死に包帯を巻く鹿乃子に遠慮がちに伝える。この人は屋敷の外から来たために、この屋敷の風習も、忌み子の怪我がすぐ治ることを知らないのだろうと思った。

 しかし鹿乃子は――

「何をおっしゃいます。治るからと言って痛いのには変わりありませんわ。わたくしは、翼妃様の心にも包帯をしているのです」

 と答えた。

 不思議とその時、目から涙が零れ落ちるような感覚に陥った。

 実際涙は出ていない。雀が死んだ四年前のあの日から、翼妃は泣くことをしなくなった。

 ◆

 数ヶ月も経つと、翼妃にとって鹿乃子が白龍の代わりのような存在となっていった。この屋敷で唯一の味方であり、対話していて楽しい人物だ。

 柊水が言ったように、鹿乃子が来てから白龍は翼妃の前に現れなくなった。抗議したい気持ちもあったが求めたところで却下されるに決まっている。翼妃にはいつの日かどんなことでも早々に諦める癖がついていた。虚ろな気持ちで理不尽を受け入れる、それが一番楽だから。

「またそんなものを勝手に持ち出して読んでいるのですか。お屋敷の人に見つかれば怒られてしまいますよ?」

 布団に隠れて書物を読んでいる翼妃を見て、鹿乃子が呆れたように近付いてくる。その手には盆があり、心なしかいつもより量の多いおかずが皿に乗っていた。今日もこっそり盛ってきてくれたのだろう。

 翼妃は嬉しくなって布団から立ち上がり、円卓の傍に向かった。

「でも、鹿乃子さんも勝手にお食事を持ち出して私に運んでるよ?」
「うっ……それを言われるとわたくし何も反論できないじゃないですか」
「ふふ、意地悪言ってごめんなさい。いつも心配してくれてありがとう」

 お礼を言って食事を始める翼妃を見て、鹿乃子も柔らかく笑い返す。

「どうしてそんなに書物をお読みになるのです?」

 復讐のためとは間違っても言えず、翼妃は少し迷った後に、“嘘ではない”答えを返す。

「最初は、自分が本当に忌み子なのか知りたかったっていうのもあって読んでた。……私の家族ね、私が六歳の時にみんな死んだの」

 翼妃がこの話を他人に自らしたのは初めてのことだった。

「家族だけじゃない、住んでた集落のみんなも死んだ。薄々分かってたけど、あれは全部私のせいだったんだ。私が神社の傍を離れたから祟りが起こった。……きっとみんな、私のこと恨んでるね」

 墨で書かれた文章を指でなぞりながら自嘲した翼妃を見て、鹿乃子は首をゆるく横に振った。

「……翼妃様は、ご家族に愛されていないと感じたことがありますか?」

 鹿乃子の問いに翼妃は少し考え込んだ。

 年月が経つにつれて記憶の中の母親の顔は薄れていく。集落の様子も今ではうまく思い出せない。それでも翼妃は何とか記憶の中の母親を引っ張り出して、優しく自分の頭を撫でてくれたその表情を思い浮かべた。

「……愛されていた、と思う」
「わたくしもそう思います。だって、廻神の人間が、貴女のお父様が、廻神に嫁いだ貴女のお母様が、忌み子についてご存知ないとは思えませんもの」
「……」
「お母様か、お父様か、どちらのご意向かは分かりませんが、翼妃様が女児であると知ってすぐにこの屋敷から連れ出して地方の集落まで移ったんです。自分たちが祟られる危険を冒してまで、翼妃様をこの屋敷から離そうとしたということだと思います。忌み子がこの屋敷でどんな扱いを受けるか知っていたからでしょう」

 翼妃は自分の父親を知らない。自分が生まれてすぐ、両親の間でどんな会話がなされたのか知る術はもうない。

 ――だから名に翼と付けたの――

 けれど、どの母親の姿を思い出しても、其の目は愛情に満ちており、自分を疎ましく思っているとは到底感じられなかった。兄も、弟も、祖母も――自分のことを愛していた、と翼妃は思う。

「きっとご家族が自ら選んだことです。翼妃様が罪悪感を抱える必要はありません」

 自信を持ってそう語ってくれた鹿乃子。翼妃はまた、出もしない涙が流れたような感覚に陥った。鹿乃子と居ると心の奥底に封じたはずの色んな感情が戻ってくる。それが良いことなのか悪いことなのか翼妃にはよく分からなかった。

 鹿乃子がそこでふと疑問に思ったように首を傾げる。

「それにしても、祟りを起こしているのは本当に神様なのでしょうか? 神様に不躾な行為をしたとかならともかく、何も悪いことをしていない翼妃様の周りを祟るなんて、神様がすることとは思えませんが……。少なくともわたくしの元いた神社の神様は人を思う良き神様でございましたよ。祀れば何でも神様とはいえ、玉龍大社の神が祟り神だという噂は聞いたことがありません」

 翼妃もそれは考えたことがあった。実際直接会ってみても、白龍が人間個人を祟るような神とは思えなかった。祟りというのは神の意思でどうこうできるものではなく、何かをきっかけとして生み出され止まらない“仕組み”なのか――。

 その辺りも知りたいと思いつつ、翼妃は書物を開き次の文章を読んだ。

 ――“忌み子を火の神の近辺に置くことによっても、災いを免れることができる。是れ、火を司る神と水を司る神が相近ずる故に成る也”。

「え……」

 火属性の神々を祀る神鎮の家系、宰神《さいがみ》家が管理する火の神の総本宮は、薩摩國《さつまのくに》にあると読んだことがある。

「鹿乃子さん、これ!」

 興奮してその頁を鹿乃子に見せる。

「火の神のところへ行けば、災いが起こらないって……!」

 翼妃はこの屋敷から逃亡しようとは考えたことがなかった。帰る場所がないうえに、屋敷から離れれば祟りが起こることを知っていたからだ。自分さえ大人しくしていればもう誰も傷付けずに済むと思っていたから。だが、他の場所でも祟りが起こらないというなら話は別だ。

「薩摩國なんてどうやって行く気ですか? 知り合いもいないのに」

 急に鹿乃子が厳しい口調になったので、翼妃は口籠った。屋敷を出るなどということをこの屋敷の使用人である鹿乃子に言うべきではなかったと後悔した。しかし、どうやら鹿乃子の懸念は別のところにあるらしい。

「わたくしは、出雲國からこちらへ来るまでも命懸けでした。長距離移動は険しい道のりです。この屋敷を出たいのであれば、確実に安全に薩摩國まで行ける見通しが立ってから行くのがよろしいかと」
「……鹿乃子さん、止めないの?」
「……ええ。わたくしは止めませんわ。翼妃様が幸せになれるのでしたら、どこへでも行ってほしいのです」

 そう言って儚げに笑う鹿乃子には、昔翼妃と同い年の妹がいたらしかった。地の神の屋敷から追い出された後、彼女は一人で生きていく術もなく鹿乃子が探しているうちに幼くして餓死したという。

 鹿乃子が自分に優しくしてくれる理由を翼妃はその時初めて知った。

 ◆

 翼妃の目標は、“廻神家への復讐を果たした後に薩摩へ逃げること”になった。翼妃が神々についての書物を読み込み、鹿乃子に薩摩への行き方をこっそり調べてもらっているうちに、いつの間にか春が訪れた。

 柊水が帝都へ行く季節だ。この日を待ち侘びていた翼妃は、柊水の旅立ちの日を派手に祝う屋敷の者たちとは逆行して自室へ向かった。やっと柊水と離れられるという喜びで胸が一杯だ。

 桜の花びらが廊下に散っていた。
 庭に咲く桜の木を見上げ、ふと白龍のことを考える。この柔らかい春の景色をあの人と見たかった、と。

 ――結局数ヶ月経っても白龍は現れない。鹿乃子が傍にいる限り、本当に翼妃の近くには来られないらしい。

 白龍にもらった物は全て捨てられた。今となっては白龍が本当に居たことを証明する術はなく、あれは精神的に追い詰められた自分が見ていた幻だったのではないかとも思う。

(白龍……会いたい)

 それでも翼妃は焦がれずにはいられなかった。
 今の生活に不満があるわけではない。鹿乃子という自分の味方が現れてから、翼妃は以前よりも心が楽になった。けれど――それは白龍を忘れる理由にはならなかった。

「――翼妃ちゃん、何してるの」

 突然話し掛けられ、びくりと体が揺れる。
 振り返ると、先程まで屋敷中の人間に祝われていたはずの立派な制服姿の柊水がこちらへ歩いてきていた。西洋の影響を強く受けているであろう背広のような上着を見て、柊水の和装しか見たことがなかった翼妃は、すらっとしていると何でも似合うのだな、とぼんやり思った。

「……外の空気を吸いたくて」

 屋敷の一室に大勢が集まっていて、暑苦しくて仕方がなかった。それに、これまで何年もかけて自分を酷い目に遭わせてきた柊水の進学を祝う気にもなれない。
 それより主役がこんなところで暇を潰していていいのだろうか、とちらりと柊水に疑問の目を向けると、柊水はふふっと上品に笑った。――年を重ねるごとに、色気というものを身に纏っていく男だと思った。

「僕もだよ。人混みって嫌いなんだよね」

 翼妃ちゃんと一緒、などと茶化すように言った柊水は、翼妃の腕を急に掴んできて、近くの一室に引きずり込んできた。油断していた翼妃は突然のことに驚き、屋敷を出る日まで自分をいたぶるのかと絶望する。

 しかし、柊水は存外優しい力で翼妃を抱き締めた。

「……柊水様?」
「あーあ。翼妃ちゃんのこと、連れていけないかなぁ」

 想像してぞっと寒気が走った。ようやく柊水から離れられると思っていたのに、連れて行かれるなんてまた地獄が始まるようなものだ。

「……私はこの屋敷を離れられない」
「よく分かってるね」

 くすくすと笑った柊水にひやりとした。蔵の書物を読んでいることを悟られてはならない。これ以上何も言わないでおこうと思い口を閉ざした。

「祟りが起こってしまうからね。本当に、翼妃ちゃんは可哀想だよ」
「……」
「僕がこの屋敷に帰ってくるまでいい子で待っていてね。僕、高等學校で勉強して、もっと立派な神鎮になって翼妃ちゃんの元に戻ってくるから」

 逃亡計画がうまく行けば、その頃には翼妃はこの屋敷にいないだろう。
 高等學校で然るべき教育を受け、今よりも知識量が増え、神鎮の権利を適切に扱えるようになった柊水を出し抜く自信はない。何としてでもそれまでにこの屋敷から逃げなければならない。

「翼妃ちゃんは花の香りがするんだ。僕の母様と同じ温かい花の香り」

 柊水が翼妃の髪を手ですくい、恍惚とした表情で言った。
 翼妃はもう自分の母親の香りを思い出せない。でも、それよりも早く母親が死んでいるはずの柊水は覚えている。不思議に思っていると、柊水がぽつりぽつりと過去のことを吐露し始めた。

「母様が死んだ日、僕はずっと傍にいた。この屋敷じゃいくら優秀な神鎮の奥さんとはいえ女はろくな扱いを受けないから、死体もしばらく放置されててね。母様の死体が腐っていくのを、僕はずっと見ていた」

 柊水の母親が死んだのは翼妃がこの屋敷へ連れてこられる前だ。まだ柊水も幼い頃。そんな年齢で、親の死体を間近で見るとはどんな気持ちだっただろう。翼妃も身近な人間の死体を見ているが、二度と思い出したくない光景だ。

「母様は祟りで死んだんだ。神は神鎮の家系の者には手を出せないけれど、母様はこの家に嫁いできただけで、一般家庭出身だからね」

 息が詰まった。

「……祟り、って、私の……?」
「うん、そうだよ」

 柊水が優しく微笑む。
 そんなはずはない。祟られるのは忌み子の周囲の者たちであるはずだ。少なくとも、書物にはそう書いてあった。翼妃の住んでいた場所とは遠く離れた神社にいる柊水の母親が祟られるはずがない。

「当時、龍神はかなり怒っててね。忌み子が生まれたって言ってるのに、屋敷の神鎮が何年も翼妃ちゃんを探そうとしなかったから。廻神家は忌み子を軽視していた。國のどこかに逃げた一家を何の手掛かりもなく探すなんて無謀だしね。けど――それは思いの外龍神の怒りに触れた。脅しとして屋敷にいる使用人や神鎮の家系以外の者が次々と死んでいった。僕の母様も例外ではなかった」
「……」
「ほら、龍神は“悪い神様”でしょう? 欲しい物を得るために手段を選ばないんだ」

 言われたことをなかなか呑み込めなかった。柊水が言っていることが本当ならば――柊水の母親が死んだのは、忌み子である翼妃があの集落へ逃げたからだ。
 同時に、柊水が自分に抱いている執着の名前も分かった気がした。――憎しみだ。

「だから僕も、欲しい物を得るためには手段を選ばない」

 しかし、柊水はとても憎んでいる相手に向けるものとは思えない湿っぽい視線を翼妃に向けてくる。柊水の指が翼妃の指に絡められ、衝撃で動けない翼妃の唇に、柊水の唇が重なった。

「愛してるよ、翼妃ちゃん」

 きっと柊水の愛と自分の愛の意味は酷く異なっているのだろうと思った。




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