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木綿織物産地と藍ⅰ 小倉木綿 青梅縞 結城縞 真岡木綿

江戸時代になると実生活に有用な草や木が広く栽培されるようになり、三草四木とも呼ばれ商品作物として流通します。三草である木綿や藍の栽培も各藩で奨励され、元禄10年(1697)『農業全書』宮崎安貞の中にもこれらの栽培の方法が詳細に記述されています。長い間日本の庶民の衣料はほとんど全て自家製の麻・苧麻などの靭皮繊維でしたが、この頃から木綿も用いられるようになりました。棉作が全国的に普及し近畿地方での大量生産システムが整うと、紺屋も全国津々浦々に出現し藍も各地で栽培されるようになります。

多くの庶民によって木綿の需要が高まると、阿波藍の生産も多くなり大坂・江戸の市場だけではなく、全国各地に藍商人が活発に商業活動を始めます。元禄期(1688–1704)以降は商品流通、貨幣経済が急速に発展したことで、町人たちの着物を扱う店「太物屋」が広まります。室町時代に出現した呉服屋は江戸時代になって絹織物を専門に扱う店として、大名や裕福な町人によって発展します。銘柄木綿と言われる木綿産地が生まれ、庶民の衣服として支持されるようになると太物と呼ばれる木綿や麻織物は「太物屋」で商いがはじまります。

  小倉木綿

徳川家康の遺品の中にも名称が見られる小倉織は、藩政時代の武士や他国に流通する銘柄織物として愛用された豊前小倉を代表する特産品でした。小倉織は「小倉木綿」「小倉嶋」という呼び名で江戸初期から文献の中では確認できますが、起源は正確な文献が発見されておらず不明なままです。古くから交易が盛んな博多、長崎に隣接した豊前小倉にはインドやべトナム・インドネシアなどからの舶来織物「島木綿」の影響があっても不思議ではないと思います。小倉木綿は小倉城下町、近郊に住む士族の婦女子によって織られ、最盛期は嘉永年間(1848-54年)前後のおよそ20年間で年産額は12万両を越えていたといわれています。3000戸以上の家庭で織機を稼働して、原料となる木綿糸は小倉近郊の北九州市や行橋市などで紡がれて、10,000戸以上あったといわれています。小倉織は経糸の密度が高く丈夫な布なので、袴や羽織、帯など武士に愛用されました。

小倉藩は産業政策のため藩の専売制にしましたが、生産体制を混乱させ品質の悪化と価格の高騰によりかえって衰退を招いたといわれています。幕末には政治情勢の影響を受けて、商取引の混乱、生産の激減、1866年(慶応2)には長州征討が起こり混乱のなか生産者も離散して一時小倉織の生産は明治維新後まで姿を消しました。早くから多くの地域に流通するほど優れた銘柄織物であった小倉織は、他地域でも「備前小倉」が備前児島で織られるようになり愛媛、諏訪や足利などでも類似の小倉織が生産されるようになりました。

明治になっても全国にその名を馳せ、夏目漱石の『坊ちゃん』や多数の文学作品の中にも小倉織の名を見ることができます。維新後は明治10年から30年くらいの間で使われる糸が手紡ぎ糸から機械紡績糸へと切り替わり、明治29年には小倉織物会社が創設され紡績糸、化学染料を使った小倉織が生産されるようになりましたが34年に解散します。小倉織と類似する織物会社が大量生産可能な近代的工場で生産されたことで、コストの高い手工業製品であった小倉織は衰退し途絶えることになりました。

  青梅縞 結城縞 真岡木綿

関東の木綿織物は江戸中期に始まり限られた地域の農間企業として展開していましたが、高機の導入により幕末にかけて著しい発展をしていました。真岡木綿、青梅縞、結城縞など銘柄織物も知られるようになります。安政6年(1859)横浜港が開港すると良質で安価な紡績糸やインド藍の輸入が増大し、国内の棉作地は藍作地へと変わり、紡績糸を藍で染め新しい技術を取り入れた織物産地が広まります。

安政元年(1854)阿波藍総移出量は236,000俵で、この頃の江戸への移入は42,011俵、関東地藍(武蔵・上野・下野・上総・下総・常陸)は10,000俵の状況でした。明治初年には武蔵国が阿波に次ぐ有数の産地になっています。埼玉県の明治16年(1883)藍作付面積は1078ha、31年には3120haを最高に衰退期を迎えます。

明治42年に編纂された『織物資料』には、埼玉県の主要織物の染色方法と染料供給地の変遷が記載されています。
《青縞》始め染料は地藍のみを使用、製織の発展に伴い不足分を阿波藍、明治20年頃よりインド藍、北海道藍を使用。その後藍の需要は年々減少し合成藍の使用が多くなる。
《武蔵飛白》維新までは地藍、阿波藍を使用し、その後北海道藍を大部分使用。明治2、3年頃紺粉。16、17年頃よりログウッドエキス、ヤシャ、ダークブルー、30年以降インド藍、35年頃より合成藍と正藍を使用。今日は硫化染料を採用。
《双子織》始め正藍を用いていたときは地藍、阿波藍を使用。その後インド藍、ヤシャ、鉄漿、紅柄、明治25年頃より直接染料、塩基性染料、酸性染料を使用。明治37年頃から硫化染料が増加して最も多く使用。
《絹綿交織》明治25年頃までは天然染料のみを使用。その後直接染料、アリザリン属、塩基性染料、明治37年頃より硫化染料の使用が7割になる。

小倉織は新しい染料をほぼ導入しないまま、昭和初期にはその生産が途絶えました。明治42年、田山花袋『田舎教師』に登場の青縞はほとんどが合成藍、硫化染料で染められた綿織物になっていたと思われます。懐かしい品々として昭和初期のブームや高度成長期のブームで古い藍染の布が注目を集めました。大量に生産された製品の流通が始まる頃の藍染は、合成藍や化学染料の青色が主流になっていて、消費する人たちの知識を得た情報がどこまで確かなことを伝えていたのか心許ない状態でした。藍のことを説明していて、この頃の状態は伝え難く多くの人にとって適切な判断をすることができない事となっています。

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https://www.japanblue.info/about-us/書籍-阿波藍のはなし-ー藍を通して見る日本史ー/

2018年10月に『阿波藍のはなし』–藍を通して見る日本史−を発行しました。阿波において600年という永い間、藍を独占することができた理由が知りたいと思い、藍の周辺の歴史や染織技術・文化を調べはじめた資料のまとめ集です。


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