見出し画像

満月の癒やし -おしまいに

こんにちは。
今日もお立ち寄りくださりありがとうございます。

バイオリニストYUKIさんによる2度の満月ヒーリングのあとの、私の個人的な気づきについて、10回にわたってお届けしてまいりました。

彼女がお好きだという数字に因み、11回目となるこの投稿を以って締めたいと思います。

ここまでお付き合いくださいました皆様、大変ありがとうございました。
この10日間は、私自身の浄化の道のりでもあったように感じています。

お読みくださった皆様に、そしてなによりこのような気づきの機会をくださったYUKIさんに、心からの感謝を申し上げます。
ありがとうございました。

では、お時間よろしければお付き合いくださいませ。

(前回の記事はこちらです↓)

気づきのあとに


思いがけず浮きあがってきた、古い記憶から見えてきたもの。

それは、他の誰にゆるされようとも、私自身が決してゆるすことのできないでいた、あの日の私。まだ、今も完全にゆるすことができたわけでは、たぶん、なさそうです。

バタバタ動き回っていてちゃんと自分と向き合っていないのでわかりませんが、こうして最後の最後で筆が止まったのは、なにかしらの課題が私の側にあってのことだと思っています。

これを整理して、心底から自分をゆるすことができたあかつきには、「後悔」も、「(ある特定の未来への)不安」も、いっさいがっさい消えて無くなるのだろうと考えています。

逆に言えば、深い部分で自分をゆるせていないからこその数々の「後悔」、であり、「不安」なのだと思い至りました。

性善か性悪か


性善説、性悪説というのがあります。

ざっくりいうと、人は生まれながらにして善である、あるいは悪である、という2つの説。もとは儒教の考え方だったと思います。

ケースバイケースではありますが、私は性善説をとることが多く、夫は性悪説をとる場合が多いです。そんなわけで同じ事象を見てもお互いの意見や感想が相容れないことも多々あるのですが、ここにきて、ようやく私にはこのことで腑に落ちることがありました。

他人を信用するしないの話ではなく、自分自身に当てはめてみれば、どちらも「真」だということ。性善の私も真であり、性悪の私もまた真。

むしろ性善説だけをとるのは、人間としての傲慢さかもしれない…そんなことも思いました。


私たちは誰しも生まれるときには完全に中立で、善でもなければ悪でもない存在であったはず。

それが、ひとたびこの世に生まれ出づれば、ありとあらゆる周りの「常識」を身につけながら育つしかありません。「善なる人」として生きるため、周りの大人たちはそうした常識やルールを教え、育てます。


ただ。この世で親や教育者、周囲の大人から得て身につけた「常識」でもって世界を見れば、身の回りには、うっかりジャッジしたくなるようなことごとが溢れています。たとえば戦争、たとえば拉致、ほかにも搾取や諸々の犯罪などなど…。

そんななかで、成長とともに私たちは周りのできごとだけでなく、自分自身のことも「良い/悪い」で次から次へとジャッジを重ねてきていたのだろうなということ。


善なる存在でありたいと願えば願うほど、性善説に傾くのかもしれません。



善か悪かを決めるのは、いつも外側からの視点でしかありません。
内側から見れば、本来なにごともニュートラル。中立。

善か悪かの基準は、あまりにも曖昧。

基準はその時代の常識であったり、属する集団内でしか通用しない常識であったり、一方的に決められたルールであったりで、どれも場所や状況によって変化する可能性があるものです。私的には、それってつまり、すべてはマボロシ。



私だけでなく、そもそも誰もが傲慢で、性悪なのかもしれない、今回そうも思い至ったのでした。

誰もが「悪」であり、そのことを自覚しているかどうかで、周りで起こる面倒なことも見方が変わるのだ、つまり見方が変わるということは「自分の見ている世界」が変わるのだ、ということ。

人間というものをとらえるためのスタート地点を、善にするか悪にするかで、こんなにも見え方が変わるのだな、そんなふうにも思いました。それに、私が見ている世界は、こんなにもいい加減なものさしでしか見ることができないのかしら、とも思いました。

YUKIさんが橋渡ししてくれたメッセージにあった

自分の中心をしっかりと持つこと」。

それは、とりもなおさず、こうした基準(ものさし)を周りのなにものにも左右されることなく、自分の真ん中、つまり魂とでも呼べる部分にシュッと1本立てときなさいよ、ってことなのだろうなと今、感じています。

ドン、と筋のとおった柱を、自らの中心に一本立てるイメージ。

深い深いグラウンディングとともに、ビクともしない柱を立てる。
その柱はあっちこっち動いたりはしないけれどその場でしなやかにたわみ。

たわむために、決して折れることがない。

たわむほどの力を受けるごとにこなれて柔らかくもなり。

そんな柔軟さを持ったまま、高くたかく天にそびえる。

その高みから俯瞰したとき、下からでは見えなかったことが見えるとともに、上から見たことと下から見たことが合わさって、物事の本質に近いところを目にすることができるのかもしれません。

コダヌキの教え


『蝉の教え』/『鹿の教え』に続いて三部作で別記事にしてもよかったのですが、昨夜のできたてホヤホヤの気づきをひとつお話しいたします。


昨日。夜も更けてから、徳島を出て車で香川に戻りました。

カーブが連続する山間部を抜けるルートしかなく、夜はたくさんの虫とぶつかったり、夜行性の野生動物が出没したりで気が抜けません。

朝の往路でも道の真ん中で野うさぎが轢かれており、かわいそうにと思いながら避けました。そのときは自覚がありませんでしたが、心の中でどこか、その野うさぎをひいた人に対するジャッジメントがあったことに、後から気がつきました。

さて、そんな日の、帰路の夜間ドライブで。
前照灯をハイビームにしたまま緩やかな長いカーブに差し掛かったとき。
かなり先の走行車線中央付近、路面に小さな光が4つ見えました。

なに?と思いながらやや速度を落としたものの、何かわかりません。

さらに近づいたとき、それが路面の光ではなく小動物の目だとわかったときは、あっ…と、息が止まりそうでした。

幸いにして前後どちらも私以外の走行車はなく、急ブレーキでことなきを得ました。

4つの小さな光の正体は、路上でハイビームに照らされて目が眩み立ち尽くす、2頭の小さな子ダヌキの目。
間一髪の急停車後も、しばらくこちらを見つめたまま動きませんでした。

動かなかったのではなく、目が眩んで動けなかったのだと思います。

もしこのまま対向車が来たらどうしよう、目の前でこのコダヌキたちがひかれたらどうしよう、…頭がクラクラしました。

スモールライト+ハザードランプのみにして、後続車や対向車が来ないかヤキモキしながら徐行しつつ、どうしたものかと考えていたら、片方のコダヌキが我に返ったのか、山側へ逃げました。

少し遅れて、もう一頭のコダヌキもダッシュで走り始めます。

ところが、最初の一頭とは反対の街側へ。
しかもそこそこの距離、徐行で進む私を先導するような形でジグザグに本線上を駆けていきました。このまま対向車が現れたら…と、気が気ではありませんでした。

ようやく2頭とも視界からいなくなったあと、ホッとしたのと恐ろしかったのと、そしてもともと一緒にいた2頭を結果的に全く違う方向に引き離してしまった罪悪感とで、涙があふれました。

このあとすぐに対向車が数台、立て続けに現れたり、後続の車が追いついてきたりで、2頭とも無事に逃げ切れただろうかと心配でもありました。

ただ、そうした感情より、最も衝撃的だったのは、自分の傲慢さ、にあらためて気がついてしまったからでした。

私ももうちょっとで加害者になるところだった…

えらそーなこと言うてても、車で夜走ってること自体、
いや、もう存在自体が…
この自然界の調和を崩すしかできない「悪」ではないか…

結局のところ、人間って存在自体が善でもあれば悪でもあって。
それらをどっちかに決めるというのも傲慢の極み…

傲慢さ


性悪説に立って、そもそも人は悪であると考えれば、少しは謙虚でいられるだろうか?それとも開き直って悪事を重ねるのだろうか?

…そこから先の家路へのドライブは、取り止めもなくあれやこれやと考えながらの道中となりました。


ひかなくてよかった、人間でなくてよかった、タヌキでよかった、と思うのは、私の人間としての傲慢さゆえと思います。


…40年以上前の、仔犬を死なせた事故の加害者。

その車を、その人を、無意識の中とはいえどゆるせていないのも。
そのときの、幼くて至らなかった自分のことをゆるさないのも。

もしかしたらどれも同じ「傲慢さ」によるものかもしれません。


昨年、宇宙視点の方から「傲慢」と言われ、自分でも思いがけないほどに落ち込みました。傲慢さの自覚があったからでもありますし、「傲慢=悪」という基準が私の中にあったからです。
そして、好きな人からそれを言われるというのは相当なダメージでした。
好きな人の前ではやっぱり「善人」でありたかったのだと思います。

当時、「傲慢」と言われて落ち込むのは、「傲慢=悪」という図式が自分の中にあるからだということには自分では気づいていませんでした。
しばらく経ってのち、もう一人いる宇宙視点の年若い娘さんから、それってこういうことじゃないかな?とアドバイスを受け、あぁ、それだ!!と、目から鱗。


自分を善人に見せよう見せようとしていたマボロシの私と、そんな見せかけのものを超えて本質を見ている人、見ようとしている人たち。

でも私はそもそもが悪人なのだから、そんなに肩肘はって自分を良く見せようとすることはないのだなと、ここに来て、やっと腑に落ちました。

善人が良い行いをしてもまぁ当たり前。

悪人が良い行いをすると「明日雨降るんちゃう?」って揶揄されながらも、褒められたり、ちょっとありがたがられたり。


ワタシ、そもそもが悪人ですから

って思っていれば、ちょっとしたことでも

「いや〜!ワタシって悪人なのになんて親切!!」

とか

「ワタシ悪人なのに、今すごいいいことせんかった??したよね、ね?」

とか。

そのままの自分に大変な価値を見出す一助となります。

ありのままの自分というものを受け容れやすくなります。

他人様にも優しくできますね。


ワタシも悪人、周りもみんなそもそもが至らない悪人なのが当たり前、と考えれば、イケズしてくる人と接しても

「ま、悪人やしな、しゃーないな」

とか

「悪人のわりには大したワルちゃうんやな」

とか。

お楽しみいただけるのではないでしょうか。

おわりに


とりとめもなく、書きも書いたり全約46000字超。
2〜3回で終わるつもりがこんなに長々と続いてしまいました。

気づきというのはこうしてなにかのきっかけがあれば、次々と連鎖反応的に続いていくのだなと感じています。

まだまだこの先も、こうした気づきからのゆるしや癒しは続いていくのだろうな、とも思います。

あらためて、YUKIさん並びに読んでくださった皆々様に、感謝をば。
大変ありがとうございました!


#バイオリニストYUKI  #性善説 #性悪説 #満月ヒーリング
#善悪 #真ん中 #センタリング #グラウンディング #ゆるし
#フラワーエッセンス

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?