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自責という「責任のとり方」をやめる

つい最近のこと。
自分を責めることを、意識的にやめてみようと思い始めた。

きっかけは、些細な気付きだった。
責めるという文字通り、
「自分を責める」ことは一つの「責任のとり方」なのではないか?
それなら、より消耗しない方法で責任を取ることもできるだろう、と
別の選択肢があることを意識できたからだ。

ここでいう「責任のとり方」とは、
社会的なポジションから生じるものや、
具体的な償いを指すものではなく、
「失敗に対しての精神的な落とし所」を指す。

自責は消耗する。
失敗を繰り返し、頭の中で反芻する。
改善点を絞り出し、次を良くしようと強迫的に思う。
反省の態度を滲み出させ、相手の許しを乞う。
「誠実さ」や「真面目さ」と似ているけれど、「深刻さ」がつきまとう。

自責はクセになる。
それには、存在理由があるからだと思う。
例えば、「自分はダメだ。ここが良くない。」と、
叱責することで、責任が自分にあることを実感する。
「十分すぎるほど責任を実感することが、責任のとり方なのだ」と、
思いこんでしまうことに、
自責の罠があるのではないかと思う。

問題点や反省点に取り組むのに、
「自分はダメだ」という否定から入らなくてもいいのだ。
このことに気付くだけで、自己肯定感をはじめ、
日常生活に結構新しい風を吹き込んでくれると思う。

この気付きから、得られたものとして次のようなものがある。
「言い訳」と「弁明」の違い。

常識的には「言い訳はしてはいけない」ことになっている。
なぜなら、自分の非を認めず、他のせいにすることが、
この行動の悪い点だからだ。

けれど、こういう場面はどうだろう。
大雪が降る。交通機関のダイヤが大幅に乱れる。
大事な会議に遅刻してしまう。

こういう時、社会人としては申し開きできないかもしれない。
けれど、心の中では思っていてもいいのではないか。
「雪の影響が大きかった。」と。

「自分はだめだ。雪を見越して行動しなかった。」というのと、
「雪の影響が大きかった。次はそれを見越して行動しよう」という捉え方。
「弁明」を心の中で適切に行うことで、
自分への精神的ダメージをほどほどに抑え、次へ活かす事ができる。

「自分はダメだ」の世界から、一歩外れてみよう。

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