よくある「半分の水」の例えに潜む幸・不幸
加藤諦三氏の本を最近続けて読んでいる。
氏はラジオ番組「テレフォン人生相談」の看板パーソナリティであり、
心理学者でもある。息の長い著作も多い。
なにを今更…かもしれない。けれど、印象的だったものがある。
「コップの半分の水」のたとえ話。
グラスに注がれた水が
「半分だけある」とするポジティブな視点、
「半分しかない」とするネガティブな視点。
1つの事実によって捉え方によって意味合いは異なるということ。
自己啓発的に言うなら、できるだけ「ある」ものに注目して、
前者の視点を持ちましょうというたとえ話だ。
正直、使い古されすぎている感はある。
深みを加えた話として、こういう話も聞いたことがある。
「ない」ものに注目してしまう人は、
物事を警戒感や慎重さを持って捉えており、
その特性が陰ながら役立っているのだ、と。
ただ、これもしっくりこない部分がある。
特性の役立ち加減を本人が実感するには、
それを認める段階が必要であり、
その特性が「ある」という視点を持つ必要があるのではということだ。
では、加藤諦三氏はどうかというと、
以下のような主張をしている。
不幸だから「ない」ほうに注意がいく。
「ない」ことに注目するから不幸になるのではない。
(略)
「自分にあるもの、自分が持っているものに注意を向ければ幸せになれる」と言うが、逆である。
幸せになれば、自然と「あるものに」注意がいく。
無意識にある、深刻な問題が解消されれば、
自然と「あるもの」に注意が行く。
-著書『自分を幸せにする生き方』
最初の一文はかなり激しい主張ではあるが、
「『ない』ことに注目する」ことと「不幸になる」ことの因果関係を、
逆にすることで、浮かび上がらせてくれるなにかがある。
私もどちらかと言うと、「ない」ことに注目する事が多い。
思いついたアイデアを実行に移してみた、
反応や手応えはどうであったか、
「100点満点で表したら、何点くらいだったか」
(実は、無意識に100点からの減点法でやってる)
どのあたりが足りず、改善すれば次へ活かせそうか。
一見PDCAを回しているようで、上昇志向だと感じる部分もある。
けれど、何に対して「ない」のか。
その基準となる部分が、若干病的だなと思ったのは、
つい最近だ。
例えば、「人と比べて」というのが基準になっている。
あるいは、漠然と「人並み」を想像している。
では、人とイコールになることを目指しているのかというと、
そういう状況は殆ど無い。
毎度、より優れた人を比較対象として引っ張り出しているので、
自分は常に「ない」側に立っているということになる。
「人と比べて」というのは、
実は「常に優れた人とイコールになりたい」ということで、
それはちょっと、上昇志向としてはどうなのだろう。
この内面的な構造を「不幸」と呼ぶこともできるかもしれない。
気付くまでは、「今のままではいけないという」感情に、
繰り返し駆り立てられてしまう構造があるからだ。
それは、「現状を認める・受け入れた上で次の行動をとれない」
ということでもある。
あなたの場合はどうだろうか。
「ある・なし」をどう判断しているだろうか。
そこに「幸・不幸」を生む構造は隠れていないだろうか。
ところで…
半分のコップの話、けっこう強烈な「踏み絵」だなぁと感じる。
あなたは楽観的な人。あなたは悲観的な人、と。
けれど、コップに半分もある水は、実は砂漠の中の最後の一杯だったり、
冷蔵庫に牛乳が入ってたり、
求めていたのは水ではなく食べ物だったり。
のどの渇きをさっと潤してしまった方が、
幸せを感じることもあるのではないか。
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