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写真を撮ることの本質とは

皆さまこんにちは!
ミスター600mm!!
フィルム時代では考えられないような写真が撮影ができるという点で、デジタルカメラは魔法のカメラではないかとさえ思っている航空写真家の深澤明です。

ミラーレスカメラになって特にですが、オートフォーカスに関しての性能向上が目まぐるしいのはご承知の通りだと思います。

視線入力や瞳AF、乗り物モードなど、カメラ側(レンズ側)が勝手に被写体にフォーカスを合わせてくれる便利な機能を備えていて、カメラの進化は止まりません。

すると、チラホラとこんな言葉が聞こえてきます。

「自分が撮っているんだか、カメラが撮っているんだか、わからないよね」と。

そう言いたくなる気持ちもわからないでもないのですが、そもそも写真を撮るという行為は、果たしてピントを合わせて露出を合わせてという動き(作業)のことを指している感覚が強いのか?ということです。

自分でシャッターを半押ししてフォーカスエリアを親指で動かしてフォーカスを合わせて、という動きが省力化されるだけで、写真を撮っている気がどこかへ吹き飛ぶものなのか、という考察が始まってしまうのです。

むしろ、例えば人物撮影をする場合、瞳AFにしておけばほぼ間違いなくフォーカスは顔の一部である目に行くわけですが、きちんとフォーカスがいっているか電子ビューファインダーでオブザベートしている必要はあるものの、カメラとレンズにお任せすれば今までの動き(作業)が軽減されるわけですよね。

その分、意識を他に持っていけると考えれば良いわけです。

構図であったり背景の不要物であったり、光の具合であったり。

いままでフォーカスを合わせることに割いていた労力が軽減されるわけですから、物理的な時間も他に避けるし、意識の持つべきポイントを他に回せるのです。

写真を撮るというのは、自分の表現したいものを形にする、伝えたいモノやコトを形にする行為であり、何もフォーカスを合わせることに注力することではないのです(もちろん、そういうことだけを指しての言葉ではないのはわかっています)。あえての問題提起です。

そういう観点からしますとミラーレスカメラなどの新製品は、より写真を撮る本質の迫れる存在と捉えて良いのではないでしょうか。

お任せできるところはお任せする。その他の本質的な部分にその分の意識を労力を回す。

良い写真が撮れるように、写真の本質にできるだけ素早く迫れるようにカメラメーカーが用意してくれている。

極端かもしれませんが、少なくともワタクシはそう解釈しています、現在のミラーレスカメラ。

そして、その進化したカメラを使って写真を撮っているのは、手にしているカメラでではなく、あくまでもシャッターに指を置いているワタクシ自身であり、皆さん自身なのです。

そこは忘れてはいけないなと、いつも思っています。





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