『ラシ』②

『ラシ』
 三人からの事情聴取で、彼らと被害者の須藤さんの仲は良いわけではなかったとわかった。まずは早瀬彩音。彼女は須藤さんの元恋人で、付き合っていた時のお金の貸し借りで今ももめていたそうだ。だからさっきは「七生」と呼び捨てにしていたのだろう。
戸次章は須藤さんがまだ無名のときにバイトをしていた飲食店の後輩である。その際、先輩であった須藤さんからいじめられバイトをやめてしまい、今はコンサートホールの清掃員として働いている。その飲食店で一緒に働いていた女性と戸次は結婚していると、早瀬彩音が述べた。
そして久間田小夜。彼女は須藤さんと同じバイオリニストだ。他の二人と違い一見すると目立ったトラブルはない。ただ大河ドラマのオープニング演奏をめぐったライバル同士だったため、そこでなにかもめていたらしいと早瀬は証言した。最近は須藤さんが久間田を気に入り、たびたび共に出かけていたらしい。連れ立って歩く二人を戸次が何回か見たそうだが…。久間田に聞くと、出かけたのは確かだが、それは二人の恩師への誕生日プレゼントを選ぶためだったという答えが返ってきた。
 事情聴取を終え、私たちは例のダイイングメッセージについて検討した。容疑者たちの部屋を見張るような形で、廊下で話す。『ラシ』とは何を指しているのだろう。コンサートホールという環境からして、ドレミファソラシドから取られているのだろうと推測はできるのだが。
「犯人が演奏した曲の中に、『ラシ』で始まる曲がある、とかかね」
 先輩刑事がつぶやいた。あるいは、犯人の名前を指しているのか、と私が言うと、彼は考え込み、整った顔をしかめる。
「ダイイングメッセージが『ラシ』か。なあ、俺はダイイングメッセージがらみの事件を担当したことはないけど、風子はあるか?」
 その時、ガチャリと控室の扉が開いた。先輩も私も慌てて口をつぐんだ。扉の防音機能は割としっかりしている感じだったが、今の会話を聞かれてしまったかもしれない。先輩は顔を赤くしている。控室から出てきたのは久間田小夜だった。
「すみません。風邪薬を買いに行きたいんですけど」
 彼女によると、戸次章がのどの痛みと熱っぽさを訴えているそうだ。そういうことなら、と警官ひとりが代わりに買いに出ることになった。その間、私は久間田と話す。彼女は他の容疑者二人は自分を嫌っていると思っているらしく、話している間も悲し気な顔を見せていた。
「私に風邪薬を買いに行かせようとしたのも、私が被害者の須藤さんともめていたと証言したのも、きっとあの人たちが私を嫌っているからなんです」
 警官が薬と飲み物を買って帰ってきた。薬は久間田がよく効くとおすすめしたものだった。彼は戸次に風邪薬を渡し、本来の職務へと戻っていく。久間田も警官が帰ってきたタイミングで控室に入る。先輩のため息が聞こえたので彼を見ると、スマホを手に頭を抱えているところだった。
「今後輩から連絡が来たんだ。彼には容疑者がらみの曲で『ラシ』で始まるものがないか調べてもらっていたんだけど、なかったそうだよ。『ラシ』が曲を示しているという説は取り下げないとね」
 そうですか、と言ってから私もため息をつく。先輩や、曲を調べてくれた後輩を責めるつもりはまったくないが、ダイイングメッセージが解けないことには解決できない。焦りが募る。
「もし琴井の言うように『ラシ』が犯人の名前を指しているなら、どういう解釈が考えられるだろうか」
 私は今までの経験を思い出す。これまで担当した事件に音楽やダイイングメッセージが関わっているものはなかったか。あれも違う。これも違う。思い出せ、琴井風子。しばらくして、私の頭に一つの事件が浮かんできた。路上ミュージシャンが通り魔に殺害された事件で、「ドレミ」の英語表記「CDEFGABC」がカギになったのだった。私が担当した事件ではないが、刑事であった父が携わっており、新人の頃に「これも勉強の一環だ」と思い調書を読んだ記憶がある。もし英語表記に変えるとすると「ラシ」は「AB」になり、容疑者の中では戸次章を指すことになるが…。それを先輩に話すと、彼も納得したようなしていないような微妙な顔をした。

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