ラシ④

『ラシ』の意味
 コンサートは事件の翌日に開かれた。現場になった控室こそ使えないものの、他は通常どおりだ。演奏中は客の目もあるため滅多なことはないだろうが、コンサートの前後は何か起こらないか心配だ。久間田小夜が出演し、早瀬彩音が見に来るコンサートでもあるのだから。そのため先輩と二人でホールに行ってみることにした。無事にコンサートは終わり、客が帰っていく。しばらくして、このあと反省会兼打ち上げがあるらしい出演者たちもぞろぞろと会場を後にする。
「やめてください!」
 あらかた出演者がいなくなったホールで、叫び声が聞こえた。声の方に駆け付けながら、だんだん頭の中が整理されていく。誰もいないコンサートホールはよく声が響く。悲鳴の主を見つけるまで、かなり走らなければならなかった。悲鳴を上げたのは久間田小夜だった。早瀬彩音に首を絞められている。先輩が早瀬を引き離し、私が久間田を背中に庇う。早瀬にとっては、言い逃れの出来ない場面を見られた、ということになるだろう。
「やっぱり、あなただったんですね。早瀬彩音さん」
 私は彼女に向かって言う。正直、早瀬彩音が犯人だという確信はなかった。ただ、コンサートの間、私なりに考えて結論は出していた。
 昨夜、私たちは署に泊まり込みで捜査をしていた。現場の状況から、我々警察は犯人は被害者の知り合いであると推測し、容疑者の三人を割り出した(途中で戸次章のアリバイは証明されたが)。しかし「もしかしたら早瀬彩音と久間田小夜以外に容疑者がいるのではないか」「他に被害者の須藤に恨みを持っていた人はいないのか」など可能性をあげればきりがない。そのため、ホールの防犯カメラをもう一度チェックしたり、被害者の交友関係を調べたりしていたのだ。
そこに父が陣中見舞いにやってきた。そのときに、昔の記憶をぼんやりと思い出した。父は音楽好きで、激務の合間をぬって警察音楽隊にも所属していたらしい。彼はもともとクラシック音楽が好きで、幼いころはピアノやバイオリンを習っていたそうだ。私が小さいとき、父が教えてくれた知識が、記憶の底から浮上してくるような感覚を覚えた。それが何なのか思い出せずにいたが、コンサート中に思い出したのだ。
クラシックの世界では、ドイツ語の音名をよく使うこと。そして「ドレミファソラシド」が英語で「CDEFGABC」ならドイツ語では「CDEFGAHC」だということを。つまり「ラシ」にあたるのは「AH」で、それはとりもなおさず早瀬彩音を指すのではないか。大河ドラマのオープニング曲で有名になったものの、須藤さんの専門はクラシックだ。なじみがあるのはドイツ式の方ではないだろうか。そう思ったのだが、物的証拠は何もない。私たちはダイイングメッセージを重視した捜査をしているが、瀕死の状態の人が書いたメッセージにどれだけの信憑性があるのか、と言われてしまえばそれまでだ。そこで、早瀬を警戒しつつ、他に動機を持っていそうな人がいないか見ていたのだ。
「久間田さんも、ダイイングメッセージの意味が分かったんですね」
 ええ、と久間田はうなずいた。襲われていたが、声はしっかりしている。私が先輩とダイイングメッセージについて話しているとき、久間田が控室から出てきた。きっとあの時に私たちの会話を聞いてしまったのだろう。そして、彼女も「ラシ」が早瀬彩音を指すのではないかと気づいてしまった。
「最初は戸次さんを疑いました。でも考えてみれば、彼がよく使っているのはドイツ式のもの。だったら、メッセージもそう読み解くのが正しいんじゃないかって」
 容疑者の中で、ダイイングメッセージを読み解けるのは久間田くらいだ。早瀬彩音は音楽に興味がなく、戸次章は職場こそコンサートホールだがトイレや廊下を掃除する、単なる清掃バイトだ。クラシック音楽に精通しているとはとても思えない。けれど、被害者・須藤と同じくバイオリニストの久間田なら、メッセージの意味がわかるだろう。だからこそ、久間田の悲鳴を聞いた時に、「ラシ」が早瀬彩音だと気づいた彼女が口封じのために襲われたのではと思ったのだ。
 先輩は応援のパトカーを呼び、早瀬彩音を連行していった。本来なら久間田小夜にも署で事情を聞くべきなのだが、彼女はまだ署に行けるほど、首を絞められたショックから抜け出せていないようだった。しばらくコンサートホールの大階段に座り、話しながら彼女が落ち着くのを待つ。
「未然に防ぐことができなくて、申し訳ありません」
私は頭を下げた。早瀬を見張っていたのに、出演者たちがぞろぞろと帰っていくうちに見失ってしまった。きちんと見ていれば、久間田小夜は襲われずに済んだのに。
「いえ。私の悲鳴を聞いて、すぐに助けに来てくれましたし。それに私も悪いんです。黙って警察に『ラシ』の意味を伝えればよかったものを、早瀬さんを問い詰めてしまったから、あんな目に遭ったんです」
本当に彼女が犯人だったら一発殴ってやろうかと思ってました。そうする間もなく襲われちゃったんですけどね。そう付け加えて、久間田は弱々しく自嘲的に笑った。
「私、須藤さんが好きだったんですよ」
 しばらくして、久間田がぽつりとつぶやいた。涙が一滴、彼女のスカートに落ちた。
「だから、一緒に出掛けるのも楽しかったし、もっと一緒にいたいって思いました。気持ちを伝えられないまま、今回の事件が起こっちゃったわけですけど」
 久間田は涙をぬぐって、また笑う。私と彼女は、その後一時間くらい話し続けた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?