ラシ③

戸次の証言
 先輩のスマホが鳴った。彼は電話に出て相手の話を熱心に聞いている。相手は私たちの上司のようだ。通話を終えた彼は、疲れた表情をしていた。
「どうやら戸次章は犯人ではなさそうだよ。他の班が容疑者のアリバイを徹底的に調べたらしいが、戸次と電話していたという女性が現れた」
「それがアリバイになるってことは、固定電話ですね」
先輩はうなずく。その女性は戸次と付き合っているそうだが、戸次には妻がいる。要するに不倫相手との電話だったために、戸次も言い出しにくかったのだろう。あるいは、親しい相手ではアリバイ証明にならないと思って言わなかったのか。しかし彼が使ったのはホールの外にある公衆電話で、相手の携帯に履歴がしっかり残っていた。通話の時間も死亡推定時刻と一致する。アリバイ成立とみていいだろう。戸次が犯人ではないとすると、『ラシ』がイニシャルを表すという私の説は間違っていたことになる。他にどう解釈すれば…。
「刑事さん、最後にひとつ、いいですか」
戸次は帰り際に私にいくつかのことを教えてくれた。
「早瀬さんには、新しい恋人がいるそうですよ。今日はその人の招待でここに来たんだとか」
 確かに、今日は七生に呼ばれたわけじゃない、と言って帰ろうとしていたっけ。
「その人って、被害者の知り合いだったりします?」
「いや、全然」
新恋人は須藤七生さんとは関係のない人で、コンサートに来たのも音楽に興味があるからではなく、単なる話題作りのためらしい。戸次曰く、ミーハーカップルだとか。
「あとこれは早瀬さんが言ってたんですけど、僕に買ってきてくれた風邪薬、久間田さんのおすすめだってやつ、被害者の須藤さんが愛用していたものだそうですよ。ちなみに久間田さんは滅多に風邪をひかないって言ってました」
 戸次の証言を頭の中で整理する。風邪をひかない久間田が被害者愛用の風邪薬を知っていたのは、親しい間柄だったからだと早瀬彩音は言いたいのだろう。そういう早瀬も、金銭トラブルだけではなく、新恋人のことで被害者と争っていた可能性だってある。どちらかが決定的に怪しいわけじゃない。やはりダイイングメッセージを解かなければ、犯人は分からない。
戸次章は、解放され帰っていった。他に犯人を示すようなめぼしい証拠もない。目撃者もおらず、防犯カメラにも犯人の姿がうつっていないのは、単なる偶然か、計算か。
「残る二人も解放しよう」
 先輩がはっきりとした声で言った。彼の言う通りだ。証拠がダイイングメッセージのみの今、長時間二人を引き留めるわけにはいかない。他に気になることがあれば署に来てもらうことになるかもしれないけれど。

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