『ラシ』①


『ラシ』
ダイイングメッセージ
「被害者は須藤七生(すどうななお)さん、32歳男性。今日はこのコンサートホールで行われるイベントで演奏するため、ここに来ていました」
須藤七生といえば、大河ドラマのオープニング曲を演奏したことで有名なバイオリニストだ。あまりクラシックを知らず、ドラマを観ない私でもわかるということは、かなり名の売れた人なのだろう。最近はエッセイを出し、それも好評だという噂だ。
「死因は?」
「検視官の先生によると、腹部を刺されたことによる出血多量、だそうです…。しかし心臓などの急所ではないため、刺された後も数分は生きていたと思われる、と」
 私は先輩刑事である手島の質問に答えていく。先輩は被害者の指先を見てぼそっと呟いた。
「琴井(ことい)、あれは?」
「あれは…、ダイイングメッセージではないかと」
 被害者の右手の人差し指は、血で書かれた文字をさしていた。『ラシ』、それが彼のダイイングメッセージだったのだ。
 「いったい、いつまで待ってたらいいんだよ?」
「須藤さんが亡くなったって、本当なんですか?」
「さっさとしてよ、早く帰りたいんだから」
須藤七生の知人たちが控室に集められた。久間田小夜(くまださよ)、早瀬彩音(はやせあやね)、戸次章(べっきあきら)である。私、琴井風子が部屋に入った時、彼らはそんなことを言っていて、かなり気が立っているようだった。ぴりぴりとした空気が漂っていて、いるだけで神経を削られてしまいそうだ。私のあとに入ってきた先輩が少し顔をしかめたのを見逃さなかった。私は彼らの顔にさっと目を通す。早瀬彩音は被害者と同い年くらいだろう。明るい色の髪に緩くパーマをかけている。人ごみの中でもパッと目立つような整った顔立ちだが、それゆえにこちらをにらむ視線が突き刺さるように痛い。戸次章は早瀬よりも少し年下で、27歳くらいか。どこかあどけなさを残す声と、ふてくされているみたいな表情も相まって、反抗期の少年のようだ。戸次の隣に座る久間田小夜は、この中で一番若い。せいぜい20代半ばといったところだが、一番落ち着いているのも彼女だった。
「須藤七生さんがお亡くなりになりました。何者かに刺されたようです」
 三人の容疑者は顔を見合わせた。驚いている様子はないから、きっと警察に集められた段階で覚悟はしていたのだろう。久間田は須藤さんが亡くなったことにも気づいていたようだし。
 須藤さんは彼の控室で殺されていた。須藤さんを知るホール関係者によると、彼は以前、控室まで忍び込むような悪質なストーカー被害にあったことがあり、友人知人しか控室に入れないことにしていたという。刺されていたのが背中なら、こっそり忍び込んで気づかれないうちに背後から…、ということも可能だろうが、腹部を刺すなら真正面から襲わなければいけない。となると、犯人は彼に警戒されずに控室に入れる人間、つまり彼と仲のいい人物だということになるだろう。そこでホール関係者の証言から、コンサートに来ていた彼の知り合いを探し出し、こうして集めているのだった。
「そろそろ帰ってもいい?あたし、今日は七生に呼ばれたわけじゃないし」
早瀬彩音はぶっきらぼうにそう言うと立ち上がった。戸次章がそれに続く。私が彼らを止めるより先に、先輩が二人を制した。早瀬、戸次、久間田の三人が容疑者としてあがっていることを説明している。久間田も二人をなだめる。ようやく落ち着いたのか、早瀬と戸次は椅子に腰を下ろした。
「それではまずは、被害者との関係から…」

つづく

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