おばあちゃん家の漫画

正月とお盆には、都内にあるおばあちゃんの家に親戚一同が介するのが恒例だった。おばあちゃんの家は都内でも有数の広さを誇るお寺の脇に建っていて、家の真横まで縁日の屋台が数百軒も並んだ。そんな非日常に囲まれて過ごす数日間は何よりも楽しみだった。

でも、焼きそばや射的よりももっと楽しみだったのは、大好きないとこたちに遊んでもらうことだった。私は8人もいる従兄弟の中で一番年下だったから、大変に可愛がってもらえた。男兄弟を持たない私にとって、年の近い従兄弟たちにいろいろな遊び、時にはちょっと"ワル"なことまで教えてもらうのは、ちょっとした冒険だった。一つだけ寂しかったのは、従兄弟の家はおばあちゃんの家に近かったから、一緒に泊まってくれることは少なかったこと。そのおかげで、おばあちゃんの家に滞在している数日間は毎朝、従兄弟たちが来るのをずっと待たなければならなかったし、さらに不幸だったのは、幼い私が暇をつぶせるようなものは家に一つもなかったこと。おばあちゃんの家は今では築70年を迎えるぼろ屋敷で、ツタが家の外壁を屋根までびっしりと覆っている。「家を壊してしまう」と何年か前に根元の幹を断ち切ったらしいけれど、力強く育った枝葉はいまも家にこびりついたままだ。あと何十年かして家全体が腐り落ちても、ツタだけは家の形をそっくり型取って自立しているんじゃないかと思ってしまう。家の外観はどう見ても空き家で、通りすがりの人が家を出入りする我々を盗人かと疑うような眼を向けてくることも少なくない。


昔の建物だったから、娯楽の少ない家だった。もしかすると、父親や叔母が子供のころに使っていた部屋にはおもちゃの類が残されていたのかもしれないが、彼らの部屋は家の二階の奥まったところにあり、幼い私にとって足を踏み入れることは恐怖だった。床はぶよぶよとしていて、ツタで窓が覆われて四六時中暗い空間は、幼い私にとっての禁制地域だった。しかして家の一階で退屈な時間を過ごさざるを得なかったわけだが、唯一娯楽と呼べるものがリビングのガラステーブルの二段目に、ティッシュと並べて置いてあった。手塚治虫先生の『ブラックジャック』。第何巻だったかもわからないけれど、一冊だけ、おばあちゃんの家を訪れるたび同じ場所に置いてあった。もうどの話のあらすじも結末も知っている。それでも従兄弟たちの来る気配が感じられず、テレビのチャンネルも一通りチェックしてしまったとき、それを手に取って、1コマ1コマに慰めてもらった。自動車事故の濡れ衣を着せられた仕立て屋の息子、指をちょん切られたスリ、彼らもまた、祖母や従兄弟とともに毎年私を出迎えてくれた。

でもある年から、彼らの出迎えはなくなった。その前の年の盆に、ずっと『ブラックジャック』を読んでいる私を見た父親が、本を家に持って帰ってきてくれたのだった。当時は私も漫画はあまり持っていなかったからそれなりに喜んだのだろうが、紙面の彼等との交流はぱたりと途絶えてしまった。家にいれば録画しておいたテレビを観るなり外に遊びに行くなりそれなりに忙しく、彼らに会いに行く必要はなかった。挙句の果てにいつの間にか本はどこかにいってしまったし、そもそも祖母の家では貴重な娯楽が失われ、より一層退屈な時間が増えた。それから数年経って本格的に漫画に熱中して以来、手塚作品も数多読んだが、その都度祖母の家にあったあの一冊を思い出す。あの古家の空気をため込んで、オレンジ色の光を浴びていた黄ばんだ紙面と重厚な装丁にとって、我が家のLEDはまぶしすぎたんだろう。

おばあちゃんは施設に移り、家に住む人はとうとういなくなった。建て壊しの検討も進んでいる。あの壁を、屋根をひっしとつかんで離さないツタが、何を思っているのか、私にはなんとなくわかる気がする。

2月9日まんがの日、手塚先生の命日にて

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