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反面教師って思い続けるしかなかったんだ

初投稿の記事をドキドキしながら公開して3日経ちました。
12人の方からスキをいただき、びっくりと嬉しさでいまだにソワソワしています。ありがとうございます。

死ぬほど自分が嫌いで許せなかった私の変化。
ここで少しずつ書いていきます。

きっと今
生きてるの辛いな
あいつ許せないな
子育てつらいな
この場所から逃げたいな
って感じてる方がたくさんいるはず。
私も数ヶ月前までそうだったから。

そんな方が読んでくださって、ふーん、変われるやつもいるんだーって面白がってもらえたら嬉しいです。

今回は第2回目。


1.猪突猛進の親に巻き添え食らった感しかない

自分を否定し続けてきた40年は、わたしを産み育てた母を否定し続けた40年でもあります。

母のことはそう簡単に語れるような内容でもボリュームでもないので、長文になります、あらかじめご了承下さいませ。

母は私が生まれてすぐにクリスチャンになりました。だから私の日常にはいつも教会、お祈り、讃美歌、献金などが当たり前のようにありました。

前回書いたアル中DV男である父と何きっかけで知り合ったのか知りませんが、結婚してくれと言われたからしたそうな。
この言葉が真実なら、そらうまく行くわけないやろ、その結婚。自分の意志はどこにあるんや?と言うツッコミを子供の頃からずっと持ってたけど、まぁ実家に猛反対されても共同トイレの風呂なしおんぼろアパートに暮らそうと思ったんだから、母にもなんらかの決め手があったのでしょう、多分。

でも一緒に暮らしてみたらアル中DVに苦しめられたんでしょう。多分。

母は仏教徒だったそうで色々勉強していたそうですが、自称キリスト教の訪問チラシ配布なさってる某宗教団体がうちに来たのと、たまたま兄が通っていた公文教室がある教会の一部屋で行われていて、それがきっかけでその教会の方からも話を聞いたりして、後者のキリスト教に決ーめた!と入信したんだそうな。

救いを求めて宗教に入られるのは個人の自由ですので、そこに関しては何ら文句を言うつもりはございません。
教会の方々には本当に我が子同然に、めっちゃくちゃ可愛がってもらいました。
彼らがいたから今の私がいます。無償の愛を注いでくださった皆様には感謝しかない。

母はクリスチャン生活を送る中で、その教会の中でごく一部の特殊な思考を持った人々の集まりに興味を持ったようです。
その人々というのは自給自足で暮らしながら伝道生活を送り、子供は学校に行かせずにホームスクールで育てるという生き方をなさっておられました。
それがどのように母の中にヒットしたのか謎ですが、そういう生き方をしている人々にわざわざ会いに行き、「私もやる!」と言い出したわけです。

冷静に考えても…ぶっ飛びすぎでしょう。

我が家は当時京都に住んでいました。
京都のいわゆる市内です。前にも書いたけど、風呂なし共同トイレ、二間しかないおんぼろアパート暮らしで、アル中DVのかなりやばめの旦那がいて、何が自給自足のホームスクールをやりたいと?北極の流氷の中に頭突っ込んで考え直してくれる?って今でも思います。

頭を冷やす間があったのかなかったのか、思い立ったら止まらないタチの母。
都会で畑もないから自給自足は無理だったけど(どっかの河原で農業やらされた記憶がかすかに…)、母はホームスクールなるものをスタートさせてしまいました。
当時兄は4年生だったかな。私は5歳くらいでした。

地元の教会の人には反対されたそうです。
そのホームスクールとかの考えを推奨している方たちにも、都会の悪い環境では…と反対されたそうです。
それでもやるってさ。よほどやりたかったんだろうけど。時間が巻き戻せるならお願い、冷静になって。

ホームスクールとは、私のことばではうまく説明できないので、素敵なわかりやすいある方のブログをご参照ください。
https://www.obatakazuki.com/homeschooling#2-3

こんなしっかりした方がメリットデメリットを分かりやすく解説してくださり、素晴らしい時代になったものです。
35年前の日本にはこんな情報なかったし、見切り発車した母のおかげで、わたし個人としてはデメリットしかなかった暗黒時代の幕開けでありました。


2.親は親。教師にはなれない。

母はいわゆる学校の勉強はできない人でした。
父も、もちろん右に同じです。
母は4年の兄に勉強を教えられてたのかなぁ。

親がきちんとカリキュラムを立て、子供の興味があることを深掘りすることに時間を自由に使えて、一般常識と言いますが基本のキ、は教えるのがホームスクールを選んだ保護者の義務だろうと冷静に考えて思うのですが、残念ながら我が家にはそういうカリキュラム的なものはなかったように記憶しています。
実態はひどいものでした。

朝から聖書の勉強、死ぬほど高いキリスト教の本を読み(あんなにウン万円も本にお金かけてたってことはうちにはお金があったのか???)、算数ちょろっとやって、もうグダグダグダ…
11時くらいから「べた焼き」と呼ばれる卵なしホットケーキみたいなのをホットプレートで焼いて早いお昼ご飯を食べ、あとは母はよく昼寝していた記憶が蘇ります。
午後になると兄はサイクリングによく行っていた気がする。私は母と昼寝したりしてたんだっけな。公園に行っても誰もいなくて、歳の離れた兄と遊ぶのもあまり好きじゃなくて、毎日つまらなかった。

私は学校に行きたかったんだと思う。
なんで学校に行かせないの?と何回も聞いた気がする。

ホームスクールを始めたきっかけは、公立に通っていた時代にいじめの対象になりかけていたから、その後私立に転校するも運動神経が悪くあまり馴染めなかった。そんな時にホームスクールという教育を知り、やり始めたと聞いた。

私はとても活発で社交的な性格で、兄とは全然違う性格だった。
私を学校に行かせなかったのは、学校は人と比べる競争社会で、あんたは強い性格してるからそういう競争の場に置きたくなかったから、と言われました。 
多分他にも色々あったんだろうけど、子供向けに公開された表向きの情報はこれくらい。

ホームスクーラーの成功事例というか、学校いかなくてもこんな立派で幸せな人生送ってるぜ!みたいなお見本が知り合いにいたわけでもなく、日本でホームスクールをしている人はほぼほぼアメリカやカナダに留学をしてそちらで学歴を取得している人が多かったんですが、我が家の経済事情でそこまでのことができる見通しはなかった(留学させる気はゼロだった)。

この前父が亡くなってから聞いてみたのですが、たとえば兄や私がすごく頭が良かったり、好きなことがあって何かを勉強したいとか、なりたい職業があるとなった時に、学校に行っていないということで夢を叶えるのが困難な状況や遠回りになったりすることを想定しなかったのか、と。
母からの回答は、私に指摘されるまで、そこまで深く考えていなかったと。

身近に同世代の子供もいない閉鎖的な空間で家で勉強することで、子供同士の喧嘩も遊びもできない環境がベストだと思ったのか?とも聞いたら、教会の人たちが深く関わってくださっていたから大丈夫だと思ったという回答。

強烈なカミングアウトでございました。

うすうす感じてましたよ、後先を考えていないあなたの行動は、子供の将来の希望、夢、職業の選択から遠ざけていることを気がつかずにやっていたことを。
子供の頃にしか経験できないことを私たちから奪っていたことは、あなたが自分のやりたいことを貫いた副産物的なことでしかないんだろうって。

母は母の人生に後悔はないそうですが、私は母のせいで、といろんなことを恨んできました。
とにかく母のやることなすこと、私は全て反面教師と思い、自活するようになってからは母とは違う人生を生きてやる、くらいに思いながら必死に生きてきました。
おかげで料理はうまくなったし、整理整頓はできるようになったし、お金の管理に関してはかなり細かくなりました。お金にだらしない母みたいにはなりたくない一心で、借金が大嫌いです。住宅ローンはあるけど。

親は親の立場で、子供の人生を暖かく見守って、信じて欲しかったなぁ。しみじみ思います。

教育を受ける権利を奪われたという苦しみは、ノートを書きはじめてまず1番に書きました。
許せない、許せない、私の権利を奪うなんて、と書き殴りました。
ひたすらノートに母に対する恨み、父はなぜそんな暴走する母を止めてくれなかったのかという憎しみ、いろんな感情をとにかく書いて書いて、吐き出してはそれを抽象度を上げて読み返し、小さい頃の私の気持ちに共感して、という事を繰り返していました。

自分の事を抽象度を上げて観察するって、すごく大事です。おススメ。

それを繰り返しやってたからこそ、父が亡くなってから母にインタビューした時も、非常に冷静になってできました。
母の人生として、自分の問題として感情移入することなく冷静に話を聞けたのは奇跡のようでした。

次はまだ書き足りない母のことや、家族で引っ越しをした話を書きます。
この引っ越しに関しても私はつい最近まで自分を責める材料でもありました。

私のこんなぶっ飛んだ育ちから今は生きてていいんだと思えるようになったこの実話が、どこかで必死に生きておられる誰かのお役に立てれば、それが私が私として生きている大切な理由になります。

読んでくださりありがとうございます。

#アダルトチルドレン #自己受容 #自分を受け入れる #学校へ行ってない

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