見出し画像

相手を受け入れることについて

人を理解するということは受け入れることである。
そんなことを言われた。

理解する。話をする。そのときには「言語」が一緒でないとできない。
その「言語」は日本語、英語などの言語だけでなくて、どのような言葉を使うのか、どんな手段で伝えるのかなども含んでいると思う。

言葉をきちんと使い丁寧に細かく話す人もいれば、言葉は少ないが伝えたいことを端的に話せる人もいる。暴言のような荒い言葉でしか話せない人もいる。
人を見下すようにして話す人。
言葉の薄いが目で語りかける人。
姿や態度で伝えてくる人。

これまで生きてきて思うのは、いろんな語り方がある中で、その人が伝えたことを認めることが理解することではなくて、その人の伝え方を知ることが理解することなのだと思う。

そう考えると、曲もドラマも映画もいろんなものがとても楽しめるようになった。
歌詞で伝える曲があり、メロディで伝える曲があり、MVとともに聞くことでより伝わる曲がある。
西尾維新さんのように言葉を大切に、ある種の言葉遊びのようなものをしながら物語として伝えるものもある。
ジブリの宮崎駿さんのように登場人物が本音を口に出さず、細かな表情で伝わるものがあるもの。

こちらが受け身であるものから受け取れるもの。(人と話すなどと違い、相互的でないもの)そういうものをキャッチするためにはアンテナを張っておくこと、そして知識があることが大切。
作者たちの表現の中にいろんな要素があり、画面の端で眼に映るものや、かすかに聞こえるような音に大きな意味があるかもしれない。
それを受け止めるためにはその小さなものへの知識がなければ、見過ごしてしまう。

大人になるにつれ、涙もろくなるのは知識が増えたり、アンテナを張るのがうまくなるからだと私は思う。大人は小さい子より感受性が豊かになれると思う。
そんな大人に私はなりたい。