ブラジルの現地校に通うことになった理由
海外の駐在員の子供として海外に行くときの選択肢は大体2つあります。
1.現地にあるインターナショナルスクール(以下インター)に編入する。
2.高校生になっていなければ現地の日本人学校に編入する。
このどちらかの選択肢が一般的で、当時のサンパウロ(1996年頃)もそれが普通でした。
うちの父親もご多分に漏れず、僕のことを現地のインターに入れる気満々でした。サンパウロに前のりしていた父は、僕が来るまでの数か月で、現地のあるあらゆるインターを探し回ってくれていました。
僕の場合、当時日本で高校2年生になりたてだったので、日本人学校に入ることはなく、現地のインターに編入するということを目標にいろんな学校を受けることになったのです。
しかし、インターの高校2年生と言えば、既に大学受験の準備をしていて、授業の内容もかなりハイレベルなものをやっています。そんなところに日本の高校2年生レベルの英語力の日本人が入ったところで授業についていけるわけがありません。
どのインターも門前払いで箸にも棒にも引っかからないという状況でした。
それでもあきらめきれない父親は、サンパウロから400キロも離れたクリチバという都市のインターも受けさせました。しかし、結果は同じ。たらい回しにされていた僕も意味が分からなくなったので親に言ったのでした。
「そんなに英語を習わせたいなら僕をアメリカに行かせてくれ。それができないならブラジルの現地校に行きたい。」
そんな僕の想いを聞き入れ、僕はサンパウロの私立Mackenzie高校を受験することになったのでした。もちろんポルトガル語力は挨拶ができる程度しか話すことはできませんでした。
当時英語の家庭教師をしてくれていた日系人のK先生と、母親と三人で面接に向かいました。
学校につくと校長先生のいる部屋に通され、校長と直々に面接をしました。
はっきり言って、僕はまだポルトガル語ができなかったので、K先生がどんな話をしているのかわかりませんでした。しかし、面接を終え、結果は「合格」。奇跡が起きたのでした。
面接が終わった後にK先生は、この子日本人で全くポルトガル語ができないのです。と念を押したという。すると校長先生は
『彼がこの学校にあっているかどうかは半年後に結果が出るでしょう』
と答えたと言います。学校が設けている”外国字人枠”があったらしく、そこに滑り込むことができたのでした。
かくして筆記試験もなく、面接でもろくに話すこともなくサンパウロの現地校に編入することができたのでした。
こうして僕のブラジル・サンパウロでの青春時代が幕を開けたのでした。
当時駐在の子供が現地校に行くのは非常に珍しかったらしく、サンパウロの領事館でも話題になっていたらしいです。
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