久々に、死、を近くに感じたい。


退廃的な時間を過ごしたあとで、後悔というよりも諦めや無気に近い感覚が身体中を埋め尽くしていく。

仕事が手につかず、全てを放り投げ、ただの入れ物、肉塊と化して横たわる。

かつては昼夜働き尽くした後、もしくは、自身の仕事の結果が他者を満足させるに至らず自己嫌悪に陥るときのみ、そのような状態になっていた。しかし最近は状況がどのようであるかは関係がない。浮かんだり消えたりだが、揺らぎあるリズムで、そういった波が押し寄せる。

自己責任だ、大人げない、自意識過剰、雑魚としての人生を全うせよ、そんなことを言われても、何も動く気になれない。

軽率に、死んでみてもいいのかな、などと思う。もちろんその覚悟はないわけで、そういう怠惰な自分にもはや嫌気も差さない。

そんな折、随分昔に買って読まずだった五木寛之さんの「大河の一滴」を手にとった。気になるところをつま読む。以前はなんの関心も示さなかったが、沁み入るところがある。


もし滄浪が濁ったときは、自分の足でも洗えばいい。


屈原は、これを聞いてもなお自分を曲げず投身したが、自分はそこまで高貴ではない。自分はどこに向かいたいのか、心の声をまっすぐに聞き取れず、受け入れられずにここまで来た。今もまだ、その声には靄がかかって聞き取れず、人生を川の流れに委ねている。辛うじて、「とにかく早く漕いて、上手な漕ぎ方を学ばなければ。いつか、行き先が決まったときのために。」と生き急いではいるが、もはやそうした意欲も消えつつある。

諦めと、自分への慰みで、なんとか自分の足くらい洗ってみてもいいのかもしれない。同時に、自分の薄っぺらな生き方を、そろそろ改めなければ。こういった機会は、もうそんなに多くは残されていないように直観している。

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