富山ブラックなんて二度と食べない。

「このラーメン、二度と食べない。」

そう誓ったはずだった。


2019年冬のある日、私は富山にいた。

とある複合施設で美術を堪能した後、小腹が空いたのを感じ、その施設から徒歩20歩ほどの小さなラーメン屋に入った。

小さなドアを開けると券売機があり、奥には左右10席ずつだろうか、丸椅子が壁に向かって並んでいた。

券売機で食券を買い、一番奥の丸椅子に座ってラーメンを待つ。

壁一面に並ぶ著名人のサインを眺めながら、どれだけおいしいラーメンなのだろうと期待が膨らむのを感じながら待つこと10分。

毒々しさすら感じる黒いスープに太麺が沈み、その上にたっぷりのチャーシューとネギが乗せられたラーメンが運ばれてきた。

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「これがあの、富山ブラックか。」

膨らんだ期待という名の風船を割るように、一気に麺を啜った。

「…。」

私は言葉を失う。

これが有名な富山ブラックというものなのか。人々を虜にする富山ブラックなのか。

本音を言えば、ただただくどい、しょっぱい。くどい、しょっぱいしか言葉が出てこない。美味しいかどうか、そういう問題ではない。ただひたすらしょっぱいだけではないか。

富山ブラックの魅力などもはやどうでも良い。早く食べて店を去りたいぐらい、しょっぱかった。

麺を啜っては水を口に運ぶことを繰り返し、完食。スープはもちろん一滴も飲まない。

そして誓った。

「このラーメン、二度と食べない。」


それから一週間ほど経った頃だったと思う。

ふと「富山ブラック、食べたい」と呟いた。

私は自らの呟きに動揺した。ただくどい、しょっぱいだけのラーメンではなかったか?

しかし身体が富山ブラックを欲していた。

脱水気味だったのかもしれない。

事実富山ブラックは、終戦後の復興事業の際、汗をかく労働者の塩分補給として作られたという説もある。

だから自分が脱水気味だったということも否めないが、どちらかというとあれだ。

ポテトチップスみたいなものだ。

何度も食べないと誓ったのに食べてしまうポテトチップスのように、富山ブラックを欲していたのである。

そして、通販サイトで「富山ブラック」と検索していたのである。

あれだけ誓ったのに。


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