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【裏切られても信じ続けるのはなぜか】『映画ドラえもん のび太のパラレル西遊記』から考えるドラえもん心理学

こんにちは。バナナ星です。

この記事では、『映画ドラえもん のび太のパラレル西遊記』を観て生じた疑問について論じています。

それは、【人に裏切られても信じ続けるのはなぜか】という疑問です。

自分を裏切った相手を信じ続ける、なんて、私にはできません。
しかし、本作に登場する三蔵法師というキャラクターは違います。
裏切られてもなお信じ続けるのです。

裏切りを認めたくないのか?いつかは反省してくれると期待しているのか?
映画を観たとき、彼の行動意図について疑問が生じました。

そして、改めて「信頼」について考え直しました。

本稿では、心理学から見る「信頼」をふまえ、三蔵法師の思考・感情を考察します。

興味がある方は、以下の本文へどうぞ。

映画のあらすじ → テーマの説明 → 心理学における「信頼」 → 私自身の解釈
の順に記述しています。


映画のあらすじ

中国四大奇書『西遊記』がモチーフの本作。

クラスで『西遊記』の演劇を行うことになり、のび太は主人公の孫悟空を志願するも、端役しかもらえない。

孫悟空が実在すると思い込むのび太は、タイムマシンで7世紀のシルクロードに向かう。すると、自分と瓜二つの顔をした孫悟空を目撃する。

「本物の孫悟空と自分が似ていることを証明するぞ!」と考え、ドラえもん、ジャイアン、スネ夫、しずかを連れて唐の時代へ向かう。

のび太はひみつ道具「ヒーローマシン」を利用して孫悟空に成りすまし、3人の前に現れる。

結局変装はバレてしまったが、その裏でヒーローマシンから数多の妖怪が現実世界へと出てきていた。

ヒーローマシンとは

様々なゲームソフトをセットしてマシンの中に入ると、全身でゲーム世界を体感できる。

『西遊記』の他にも、『親指トム』、『白雪姫』などのソフトがあり、物語中のキャラクターになり切ることができる。

作中では電源を落とし忘れたことで、『西遊記』の敵役がマシンから現実世界へ出てきてしまった


ここからが物語の「転」である。

現代へ帰還した5人は、家族やクラスメイトの異変に気付く。
そう、周りの人間が妖怪になっていたのだ。

その原因はヒーローマシン。
唐の時代に妖怪が放たれたことで、三蔵法師が食べられ、人類は滅亡した。
そして、現代は妖怪が支配する世界になってしまった

元の世界に戻すために、5人は再び唐の時代へ向かい、三蔵法師の護衛と妖怪軍団の討伐を目指す。

主要なゲストキャラクター

三蔵法師
実在する唐の時代の仏教の僧侶。経典を手に入れるために、天竺を目指して旅をしている。

リンレイ
三蔵法師にお供する弟子。見た目はただの少年だが、その正体は牛魔王(妖怪軍団のボス)の息子・紅孩児(こうがいじ)である。

テーマ【信頼】について

この映画と「信頼概念」との関わりを説明する。

私は、三蔵法師とリンレイとの間に「信頼」を見た

リンレイは当初、三蔵法師にお供する善良な少年のように描かれていた。
しかし、その正体は妖怪軍団のボス・牛魔王の息子であった。妖怪軍団のスパイとして送り込まれ、三蔵法師を捕える手伝いをしていた。

そのことが明らかになるシーンがある。

砂漠付近で野宿する三蔵法師とリンレイ。ふと目を覚ました三蔵法師は、リンレイの姿がないことに気付く。
リンレイは岩陰に隠れ、妖怪軍団の手下に「じゃあ、後は頼んだよ」という言葉をかけていた。
それを見た三蔵法師は、一瞬悲しげな表情を浮かべた。

しかし、内通には気付かなかったフリをして、リンレイと旅を続けようとする。

結果、三蔵法師は妖怪軍団に連れ去られてしまった。


このシーンを観た直後、私には三蔵法師の考えが理解できなかった
なぜ彼は妖怪軍団と通じているリンレイを放置したのか?
こっそり逃げ出して自分の身の安全を確保しようとは思わないのか?

物語後半に進むと、三蔵法師の考えが読み取れるシーンがある。

ドラえもんたちと共に妖怪に捕えられた三蔵法師。
申し訳なさそうに立つリンレイを見て、ジャイアンが責め立てた。
それに対し、三蔵法師はこう言った。

「良いのだ。私は初めから知っていた。たとえ妖怪であったとしても、共に旅をしたいと言う者を、私は拒まない。長い旅の間には、私の旅の目的を、きっとわかってもらえると思っていたから」

なんと、三蔵法師はリンレイの正体に気付いていた。
そのうえで、時間をかければ味方になってくれると信じていたのである。
最後の最後には妖怪軍団を裏切り、自分を助けてくれると期待していたのかもしれない。

では、どうして三蔵法師はリンレイを信頼できたのだろうか
生死に関わる問題なのに、どうして。

前提として、三蔵法師とリンレイの間柄は決して深くない
彼らは出会って10日ほどの仲である。
もちろん、砂漠を越える旅は過酷なので、その中で絆を深めたことは想像できる。
けれども、妖怪との内通が明らかになってもなお信じ続ける根拠はない。

ここで本稿のテーマ、【信頼とは何か】に帰着した。

心理学における「信頼」

信頼概念を整理する。
人によって分類の仕方は異なるが、本稿では山岸ら (1995) の説明に則る。

自分自身や無生物に対する「信頼」も存在するが、ここでは他者に対する信頼について論じる。

信頼の下位分類は大きく分けて2つある。
この分け方は、「他者の何に対して期待するか」に基づいている。

  • 相手の能力に対する期待

  • 相手の意図に対する期待

前者は、相手が何らかの役割を遂行する能力をもっているという期待である。
例えば、プロのネイリストなら注文通りのネイルを施してくれるだろう、という期待はこれにあたる。

後者は、相手が自分(相手自身)の利益よりも他者(自分)の利益を尊重しなくてはならないという義務を果たすことに対する期待である。
例えば、恋人の浮気を疑うときを想像してほしい。
この場合、相手が浮気する能力があるかではなく、浮気する意図があるかどうかが問題となる。

三蔵法師は、リンレイに裏切る意図があると知りながら信じ続けたと言える。
よって、本稿では「相手の意図に対する期待」にフォーカスして論じる。

「相手の意図に対する期待」という意味での「信頼」は、さらに2種類に大別される。
それは、一般的信頼と個別的信頼である。
それぞれ説明していく。

一般的信頼

一般的信頼とは、開かれた社会において個人が持つ、他者一般に対する信頼を指す。

わかりやすく書くと、赤の他人に対して抱く信頼のことである。

「人である」という情報以外に何も知らない相手に対し、「最低限これくらいはしてくれるよね」と期待すること。

一般的信頼の存在には、社会的不確実性の存在が前提となる。
社会的不確実性が存在している状況とは、相手の意図についての情報が必要であるのに、その情報が不足している状況を指す。

このような状況では、相手がどんな意図をもっているのかわからず、互いに疑心暗鬼になってしまう。

そこで、社会を円滑に回すための潤滑油として必要になるのが一般的信頼である。
相手の意図が不明でもひとまず一定の信頼を置くことで、この社会は成り立っている。

※社会的不確実性が大きいほど一般的信頼が高まるかは不明。

個別的信頼

個別的信頼とは、閉ざされ安定した関係において、特定の相手に対して抱く信頼を指す。

ここで、「閉ざされ安定した関係」=コミットメント関係と定義する。
親密なコミットメント関係において、社会的不確実性は大きく低下する。また、相手の協力行動が期待できる

なぜなら、相互によく理解した仲であるし、裏切れば制裁を受けたり自分が恩恵を受けられなくなったりするからである。

例えば、同じ職場でAさんがBさんを不当に無視したら、Aさん自身の評判が下がる。上司に叱責される可能性もある。
よって、AさんがBさんに不利益な行動を取らないという予測ができる。そのため、BさんはAさんに対して一定の個別的信頼を置くことができる。

研究によると、社会的不確実性が大きいほど個別的信頼が強まるという結果が示された。
社会的不確実性が大きい状況では、特定の相手とコミットメント関係を築くことで、不確実性を低下できるからだと考えられる。

参考文献
山岸 俊男・山岸 みどり・高橋 伸幸・林 直保子・渡部 幹 (1995). 信頼とコミットメント 実験社会心理学研究, 35(1), 23-34. https://doi.org/10.2130/jjesp.35.23 

個人的見解

映画鑑賞直後、私は「三蔵法師って一般的信頼がカンストしてるんかな」と思っていた。
三蔵法師とリンレイは出会って10日の仲。それでも信じ続けたということは、人間一般に対する信頼が強いのではないか、と。

けれども、よくよく映画を観直し、また「信頼」について学び直すと、考えが変わった。

そもそも、三蔵法師にとってリンレイは赤の他人ではない
たとえ10日間という短期間でも、共に旅をして死線を乗り越えてきた仲である。その間、リンレイの人柄に関する情報はある程度入手できたと考えられる。
したがって、人間一般に対する一般的信頼ではなく、特定の個人に対する個別的信頼が問題となる。

では、どうして三蔵法師の個別的信頼はここまで高いのか。

その理由は、社会的不確実性の高さにあると考えた。

厳しい自然環境・妖怪に命を狙われる状況では、共に旅をする弟子の支えが極めて重要となる。
しかし、これまで何人もの弟子が途中で逃げ出してしまった=裏切られてきた(三蔵法師の発言を参照)。
リンレイは弟子になってから日が浅く、裏切りの意図を判断する情報が不足している。

つまり、三蔵法師は社会的不確実性の高い状況に置かれていたと言える。

そして、社会的不確実性が高い状況では、特定の相手とのコミットメント関係を形成しようとする。

「妖怪だろうが何だろうが、弟子入りを志願する者なら誰でもいい。」
「弟子とのコミットした関係を作りたい。社会的不確実性を減らしたい。」

無意識かもしれないが、彼はこのように考えたのではないだろうか。

だから最後の最後まで、実際に妖怪に連れ去られてもなお、リンレイが味方につくと信じ続けた…。

終わりに

本稿では、【人に裏切られても信じ続けるのはなぜか】というテーマについて論じました。

『映画ドラえもん のび太のパラレル西遊記』は、作品単体でも観る価値のある作品です。特に物語終盤で流れる挿入歌は高揚感があり人気ですね。あとリンレイの顔がきれい。

本作のゲストキャラクターである三蔵法師の発言から、「信頼」について取り上げました。
特に、個別的信頼に注目し、三蔵法師の置かれた状況をふまえ考察しました。

裏切られる経験を繰り返すと、誰も信頼できなくなる…ように思われますが、逆に特定の誰かに縋りたくなるのかもしれません。
「この人ならきっと」と期待してしまうのでしょうか。

彼には「天竺で経典を手に入れて仏教を広める」という何より尊い使命があったので、何が何でも(妖怪の力を借りてでも)旅を乗り越えたかったのかもしれません。

私はあまり人を信頼できる方ではないので、やっぱり三蔵法師の考えには共感できません。
人を信頼するとは、同時に裏切られるリスクを負うということです。
結局のところ、相手の心の中を知ることは不可能です。信頼するのは怖い。

信頼の条件は人によりますが、私にとっては「一定時間を共に過ごすこと」が必要条件です。十分条件はまだわかりません。
今後の人生を通して信頼できる人の母数が増えたら、他の条件も明らかになるでしょうか。

最後までお読みくださりありがとうございます!


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