オウム事件の死刑囚の移送があってから、このブログを読んだマスコミの方々からいくつか取材依頼がありました。執行に備えて着々と取材が進められているんだな…そう思うと、とても複雑な心境です。私はマスコミの取材はお断りしています。ブログを読んでいただければわかるように、私の関心はオウムの宗教体験・内的体験と事件の関係にありますが、そのような切り口はマスメディアという媒体には馴染まないと思うからです。
オウム真理教の最大の特徴は、修行によって多くの人が神秘体験(=宗教的体験)をしたということです。重大事件にかかわった弟子たちは全員、そのような経験をした修行の進んだ人たちでした。(ただし、修行の目的は神秘体験をすることではありません)
神秘体験といわれるものは、ほとんどが主観的な内的体験で、実証できない非現実的なものですが、例外は、サマディ(三昧)という究極の瞑想状態で「呼吸停止」が起きること、そして、「空中浮揚」という現象です。
オウムでは、この二つを科学的に実証しようと、密閉された地下空間で瞑想する修行者の酸素消費量を測定したり、身体が勝手に跳ね上がる「ダルドリーシッディ」という現象(空中浮揚の前段階)が起きているとき、筋電を測定して筋力を使わずに跳ねていることを確かめようとしましたが、完全に証明できたとは思えません。そもそもこのような現象は、実証実験を試みてもグレーゾーンに留まるものなのでしょう。
修行経験のない人が「神秘体験なんて…」「神秘体験にこだわりすぎ」など、神秘体験を否定したり軽く見たりすることはよく理解できます。しかし、人は現実感覚が大きく揺らいでしまうような圧倒的な非現実的な体験をすることがあり、そのとき神秘性を感じて体験に強くとらわれてしまうということも実体験しました。体験にとらわれるというよりも、体験が人をつかまえるといった方が的確かもしれません。
オウム事件は、このような体験と深く結びついているはずなのですが、このことについて、これまで正面から取り上げられたことはありませんでした。
今年(2018年)三月末、新聞に掲載された「オウムとは何だったのか」という特集の藤田庄市さんの発言は、私が知る限り神秘体験というオウムの核心を突いた初めての提言ではないかと思います。記事のなかで藤田さんはこう言っています。
オウム事件は「修行者集団」という特徴をもった宗教団体が引き起こしたものです。宗教性や修行による神秘体験という重要な要素を欠いたまま事件を理解しようとしても、オウム真理教の実態からひどくかけ離れたものになってしまうのではないでしょうか。