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富士へ ③マイトレーヤ

最初の宣言

富士の道場用地取得と道場建設の経緯について、よく知っていると思われる人がもう一人いた。オウムの建築班のリーダーだった故・早川紀代秀さんだ。なにか書き残していないかと思って彼の著書『私にとってオウムとは何だったのか』を開いてみた。

この時期、私は、支部活動をする一方、富士山総本部道場用地の取得にもかかわり、用地が取得された後は、『龍宮の宴』が終わってほっとしたのもつかの間、その道場用地で実施されることとなった水中エアータイトサマディというイベントの会場建設のため、富士へ行くことになりました。八八年三月のことです。
水中エアータイトサマディというのは、二重水槽を作り、水でまわりを囲むことによって空気を遮断し、完全な密室空間を作りだし、その中でサマディを行なうというものです。
サマディというのは、呼吸も停止した深い瞑想状態のことで、グル麻原は、このイベントで普通の人では二日間ほどしか生きることのできない空気量の密閉空間の中で五日間すごし、実際に呼吸停止が起こっていることを示そうとしたのでした。また、人がサマディに入ると、神々が喜ばれるため、取得した道場用地の祝福にもなるということでした。さらにこのイベントは、このころしきりに富士山の噴火が懸念されていましたので、富士山の麓でサマディに入ることによって、富士山の神をなだめ、噴火を避けるという目的もありました。

そして、この文章の後に続く、次の記述が目にとまった。

ようやく水中エアータイトサマディ用の水槽やスタッフや信徒さん達の寝泊まり用の大型テント等会場施設の建設も完了し、八八年四月にイベントは開始されました。
このイベントにはチベット僧も招かれ、信徒さんも数多く集まりました。
<中略>
こうして始まったイベントでしたが、水槽の水漏れと、防水剤に使用されたボンドの有害ガスが瞑想室内に入ったことによってグル麻原が体調を崩し、中止となりました。
しかし、テント内では、グル麻原の説法とイニシエーションが行なわれ、この時、グル麻原は、『自分は将来マイトレーヤ如来となる魂である』ことを公言しました。

注目したのは「この時、グル麻原は、『自分は将来マイトレーヤ如来となる魂である』ことを公言しました」という箇所だった。わたしは知らなかったが、麻原教祖は富士の道場用地でそう公言したという。

それから三年後の1991年、麻原教祖は『朝まで生テレビ』でも「わたしは未来にマイトレーヤとして降誕する魂だ」と公言している。番組中、それまで理路整然と話していた麻原教祖が、唐突に「未来のマイトレーヤ宣言」をしたので、出演者も「えっ…」と驚いていたが、オウム信者だったわたしも、いきなりで初めて聞いた内容にびっくりした。

二人のマイトレーヤ

わたしは早川さんの文章を読んで思った。

「そうか、富士山には二人の、自称・・マイトレーヤがいたんだ…」

一人は麻原教祖。もう一人は、今から三百年ほど前、富士山で入定(断食死)した「富士講」の食行身禄(じきぎょう・みろく)という修行者だ。身禄という名は、弥勒すなわちマイトレーヤに由来している。

何度も言うように、オウム真理教と富士講には何のつながりもない。富士講は信仰の対象である富士山に登拝する宗教だが、わたしたちオウム信者は富士山麓に住んでいても、富士山に登って修行することは一度もなかった。

「あ…そういえば…」

修行のために富士山に登った修行者が一人だけいた。カッピナ師だ。彼は、優れた行者として尊敬されたクンダリニーヨーガの成就者だったが、厳寒の富士山に一人で修行に行って帰ってこなかった。春を待って、捜索に登った修行者仲間が遺体を発見したときの記録が残っている。

2004年5月12日、富士山登山道御殿場口から登り、6合目からは山中湖方面にトラバースする方向で登った。一時間もしないうちに凍りついた遺体を発見した。7合目500メートルのところだった。

カッピナ師の遺体が発見された7合目500メートル付近には、富士講の修行者食行身禄が入定(断食死)した「富士山七合五勺の烏帽子岩」がある。

なにかがわたしに「そこを掘ってみろ」と、繰り返し囁いているようだった。


食行身禄は富士行者の異端派6世で、当時正統派6世村上光清は富有で大名光清といわれたのに対し、身禄は貧乏で、乞食身禄・貧乏身禄といわれたが、彼の信心と信念は深く堅固で、1733年7月、富士山7合5勺の烏帽子岩で、吉田の御師田辺十郎右衛門の心からの介添により、断食入定し即身仏となる。

「富士山NET」より

カッピナ師はオウム真理教の出家修行者。医師。若くして出家し、オウム真理教のなかでも行者として知られていた。ヴァヤヴィヤ・クンバカ・プラーナ―ヤーマやアパン・クリアなど、激しいムドラーを1000時間超など。さまざまな行法に精通して、心臓を意識的に止められるまでに。肥田式強健術などもマスターしていた。事件後は長野県の山岳でも修行して、最後は「富士山に修行に行く」と言い残して帰ってこなかった。

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