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088. 観念崩壊セミナー

一九九六年八月末、高円寺の「識華」ビルにいた私に、ある女性の師から電話があった。彼女は教団の行方を憂いていて、「今こそサマナが修行をしなくてはと思うんですよね」と話して、私も「それはそうですね」と受け応えした。彼女は、アーチャリー正大師が主催するサマナ向けのセミナーをするから、第六サティアンに来て修行監督をしてもらいたいと言った。

精神不安定だった私は、「こんな状態で監督なんてできるかなあ…」と思った。でも、このまま「識華」にいても精神状態が改善するとは思えなかった。第六サティアンで、アーチャリー正大師のもとでなら立て直せるかもしれない。そう期待した私は修行監督を引き受けることにした。

上九の第六サティアンに行くと、一緒に修行監督をする師が七人集まっていて、修行は「観念崩壊セミナー」という名前だと告げられた。

「アーチャリー正大師の観念崩壊セミナーか、おそろしい名前だなあ…」

私はセミナーの名前を聞いてなんとなく嫌な予感がした。
セミナーの内容は、かつて法皇官房で一般の人向けに考案された「自己啓発セミナー」のようなもので、内的な「気」を練ることを中心とした従来のオウムの修行とはずいぶん性質が違うものだった。まだ子どもだった正大師にそういう知識はなかったはずだから、セミナーの企画をしたのは一般向けの入信活動をしていた人だったのだろう。

セミナー期間は一週間から十日ほどで、各部署のサマナが第六サティアンに集められ、終わればまた別のサマナがやってくるという入れ替え制で行われた。初回のセミナーは手探り状態だった。グループにわかれてディスカッションをして、自分のカルマについて気づきを深め、それをもとに書いた「決意文」をみんなの前で大声で読み上げた。

「心がこもってなーい。もう一度!」
「はい、やり直し!」

私たち監督は、竹刀で畳をバシーンと叩いてはダメだしをした。
また、広い道場をいっぱいに使ってドッジボールや「水雷艦長」という鬼ごっこをした。アーチャリー正大師も大勢のサマナと一緒にボールを投げ合い駆けまわっていた。

「正大師、大人を相手に遊んで、おもしろいだろうねぇ…」

十三歳のアーチャリー正大師は、思いっきり身体を動かして遊ぶのが大好きだった。今後ばらばらになるかもしれないサマナが団結するため、と言われたが、「いや、どう考えても、やっぱりこれは正大師の遊びだよね…」と思った。

ところが、セミナーは回を重ねるごとに過酷なものになっていった。
大量の食物を食べる「極厳供養」や、カルマを落とすためにホースで冷水をかけたり、昼も夜も食事を与えられず屋外に放置されたりした。一日二日なら修行ですむことも、長期になると命がけのサバイバルだった。空腹のあまりコンテナに備蓄されている食材を見つけて盗み食いしたり、仮設トイレのなかで横になって眠ったり、寒さに耐えきれず逃げ出していなくなる人もいた。ストレスにさらされて激しい胃の痛みに救急搬送された人、蓮華座の足を修行監督が長時間きつく縛りすぎたために腎臓機能が低下し、入院する人も出た。(*1)

精神的にも肉体的にも極厳状態に追い込まれながら、サマナは自分のカルマと闘おうとしていた。セミナー後半になると、正大師も道場に姿を見せることがなくなっていった。

私は精神不安定を抱えながらも、ときどき三階のシールドルームにこもって正気を保ち、なんとか二か月におよぶ「観念崩壊セミナー」の監督の役目を果たした。最後のセミナーを終えたときは、「なにかの間違いで、死人が出るようなことにならなくて本当によかった…」と胸をなでおろした。今思うと、後半のセミナーはあまりにも異常だった。宗教性は失われ、狂気的なものが暴走してしまっていた。

セミナーが終わると、私は一層激しい感情の渦に巻き込まれるようになった。わけもなく叫び声をあげそうになり、また止めどなく涙が流れてきて、なにもかも終わってしまうような予感がした。私はこのまま狂ってしまうのではないか…もう生きていくことさえできないような気がした。そして、富士・上九という聖地を失おうとしている教団もまた崩壊しつつあったのだろう。

ちょうど同じ頃、公判中の教祖にも異変が起きていた。急速に、明らかに教祖は正気を失っていった――。(*2)


(*1)オウムの修行の中に「極厳蓮華座」と呼ばれていた修行があって、長時間蓮華座を組むことは普通に行われていた(一か月ずっと組み続けた人もいる。話を聞くと「排泄も組んだまました」とのことだった)。座法をきつく組むために「縛り蓮華座」という紐で足を縛る方法も日常的に行っていた。「極厳蓮華座修行」という長期修行が行われたこともあったが、蓮華座で障害が残ったような事例はこのセミナーまではなかった。

(*2)教祖の国選弁護人の一人安田好弘著『死刑弁護人 生きるという権利』(講談社+α文庫)によれば、1996年10月18日の第13回公判(地下鉄サリン事件・井上嘉浩の反対尋問・一回目)を境に教祖は変化する。
公判傍聴記録にも、「今朝、パールヴァティー女神から啓示があった」と言ったこの公判から、教祖の様子が変化した様子が記載されている。
安田氏の同著には、「もはや別人になった被告人」という見出しで、その様子を次のように書いている。

この一週間後(第13回公判・引用者注)、拘置所に面会に行くと、麻原さんは錯乱していた。精神状態も肉体の状態も、それまでとまったく違ったものになっていた。何と言えばいいだろうか――。鼻水が垂れっぱなし、口からはよだれらしきものが流れている、肉体のあちこちから粘液が出ているという感じだった。そんな彼の姿は、それまでまったく見たことがなかった。

『死刑弁護人 生きるという権利』

このように、1996年10月末まで行われていた観念崩壊セミナーの終わりと、続く10月31日の第六サティアンの閉鎖とちょうど同じ頃、教祖の精神は崩壊していった。これについて、外部からの薬物投与などを疑う人もいるが、この変化の直前に教祖は「パールヴァティー女神から啓示があった」と発言しているので、なんらかの内的変化の結果だと私は思っている。

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