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とわずがたり【在家信徒時代】教祖という人物

麻原さんのこと

オウムのこと、麻原さんのことを書くのは、いつもどことなく肩に力の入ることだ。読む方だって、元オウムの人でなければ、読んでいるうちになにか恐ろしいものがいきなり飛び出してくるんじゃないか、という構えがあるかもしれない。まだ麻原を信じているのかいないのか、オウムを信じているのかいないのか、最初にはっきりしてくれよ、ということかな。

たくさんある記事のどこを読んでもらってもわかるように、私は麻原さんを憎んでいないし、偽物(インチキ)だったとも、絶対的な神のような存在とも思っていない。当時から、麻原さんを完全に信じるということはなかった。私の麻原さんに対する気持ちは事件前後で変わっていないのだが、今となっては、私のような元信者は「ものすごく信じている人」に見えるだろうな、という自覚はある。

私は、麻原さんはとてもユニークな人物だったと思っている。知性という意味でも、感情という意味でもとても魅力のある人だった。魅力というと語弊があるかもしれない。多くの弟子たちにとって麻原さんは、それまで見たことがない知識と智慧、感情や心の持ち方を体現していた。特徴的なあの容姿が嫌いだという人でも、実際に接して言葉を交わせば、それほど悪い印象は持たないんじゃないかと思う。むしろ好きになる人の方が多かったから、新興宗教の教祖になることができたんだろうしね。

自分で言うのもなんだが、以下の記事は麻原さんという人物についてよく描けていると思う。写真も私が撮影した。

私はずっと、麻原彰晃という教祖が持っていた大きな矛盾、「聖と邪」や「善と悪」といった両義性について考えてきた。私が理解に苦しんだのは、麻原さんについてというより、弟子たちが指示されたからといって殺人まで実行したという事実だった。麻原さんのなにが、弟子たちにそこまでさせたのか。「マインドコントロールだ」「洗脳されていた」とか「やらなければ自分が殺されるから」という理由は、同じ教団にいた者には後付けの言い訳にしか聞こえない。

カリスマ

「教祖という人物」という記事で、私は「麻原教祖には普通でない存在感、人を惹きつける強い磁力のようなものがあった」と書いている。磁力のような力とは一般に「カリスマ」と呼ばれるものだろう。これを書いたときカリスマという言葉は知っていたが、それは例えばヒトラーのように、聴衆を熱狂の渦に巻き込むようなアジテーション能力のある人物というイメージがあった。麻原さんの説法や講話は聞き手の感情を激しく揺さぶるようなものではなく、むしろ淡々と語るスタイルだったから、カリスマという言葉と結びつかなかった。

でも、最近になって、カリスマ指導者およびその弟子についての以下の文章に出合って気がついた。

指導者が言うこと、また指導者が要求することは、たとえ自己矛盾することであっても、すべて正しい。指導者がそう言ったのだから ・・・・・・・・・・・・・、それは正しいのだ。指導者の正当性基盤は彼の奇跡的な資質に対する直接的な「認知」にある。そしてその弟子は、そうした資質の所有者に対する完全な人格的献身、「苦難と熱狂から生まれる献身」(M・ウェーバー)に没頭する。自己犠牲はカリスマ信奉者の最も重要な美徳であり、利己主義は最大の悪徳なのだ。

『カリスマ』C.リンドホルム

これはまさにオウム真理教の弟子たちによく見られた姿勢だ。「グルがそう言ったのだから、それは正しいのだ」という短絡的な思考と頑なさ。「グルは絶対」という言葉・・を前提にして、状況を顧みることなくただ突き進んでいく。あの一連の事件も同じだ。カリスマを有する指導者とそれを崇拝する弟子たちの関係性の中で、いったいなにが起こっていたのだろうか。拘置所で、麻原さんだけが早い段階で正気を失い、弟子たちは長い拘留生活を正気のまま過ごしたことも腑に落ちなかったことだ。いくつか残っているこのような疑問も、カリスマということを通じて理解できるような気がする。

「カリスマ(charisma)【定義】ギリシア語から出る。神の賜物の意。特定の個人、行為、役割(role)、身分、社会組織、象徴、事物などを、他からとくに区別して例外的に存在一般の究極的・根元的な秩序にかかわるものとして、超自然的・超人間的な異常な力あるいは性格をそなえたものとする特質をカリスマという。」(宗教学辞典)

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