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004. 非国民

富士の裾野で修行と救済活動をしていたオウムの出家者は、地下鉄サリン事件を境にして日本社会のまっただなかに引きずり出され、忌み嫌われ、憎まれ、ことごとく排斥された。

「殺人集団!」「オウム出て行け!」「親元へ帰れ!」

道場兼住居のまわりは、住民の乱暴な手書き文字の看板が林立していた。
自治体のなかにはオウム信者の住民票の受け入れを拒否するところもあったし、麻原教祖の子どもは義務教育にもかかわらず入学を拒否された。

こうして、現代日本で私たちは完全な「非国民」となった。

オウムに対しては超法規が許された。出家者は文房具のカッターナイフを持っているだけで逮捕され、それを理由に全国の施設と関係者の住居は、大げさでもなんでもなく現実に何百回もの強制捜査がくりかえされた。

朝早く、ピンポーンというチャイムの音が鳴る。ドアを開けるとそこに警察官の一団がいた。
大声で読み上げられる捜査令状の被疑者の名前に聞き覚えはなく、
「だれ? それ…」
といぶかしく思う。容疑はたいてい「銃刀法違反」や「電磁的公正証書原本不実記載」で、カッターナイフを持っていたとか、住民票の住所に住んでいないということだった。詳しい説明もないまま、なだれ込んできた警察官たちは部屋中に散らばりくまなく捜索していく。名前も知らない人の容疑で、私物の日記や下着までひっくり返していった。

そして、敬愛していた麻原教祖は日本犯罪史上最悪の犯罪者になり下がった。日本全体を敵にまわしたようなこの異常事態にもオウムはよく耐えたと思う。
「尊師への帰依があったから耐えられた」
信仰を失わなかった弟子はそう言うかもしれない。
「修行者にとって苦難こそ修行の糧。それに、これはきっとなにか大きな間違いだよ…」
私は自分にそう言い聞かせていた。

事件から一年、二年とたち、教団関係者の裁判が進むにつれて、オウムの幹部たちが地下鉄サリン事件を起こしたことは動かしがたい事実となっていた。「成就者」という教団の準幹部だった私は、後輩や信徒さんや修行と生活の場を守らなければという重い責任を感じていた。どこにも行き場がないという思いもあった。

「世俗を捨てた自分の生きる場所なんて、ここしかないじゃない…」

しかし、解脱を求める出家修行者と殺人テロ集団の一員ということの間には、天と地ほどの隔たりがある。いつしかそれは私の心に暗い影を落としていったのだろう。

オウムの施設では、いつでもどこでも麻原教祖の説法かマントラが流れていた。ある日のことだった。私の部屋で説法テープを流していたカセットデッキが、突然プツリと止まってしまった。これまで感じたことのない静寂が私を包んだ。

そのとき、はじめて私のなかでなにかが立ち止まった。

教団施設では相変わらず説法は流れていた。それを聴くことも麻原教祖の映像を見ることも抵抗はないのに、どういうわけかそれ以来、説法を聴くために自分の手を動かすことはもうできなかった。

「事件って、なんなの?」
「人を殺してまで、いったいなにがしたかったの?」

暗く重い大きな問いが姿をあらわし、背後からしっかりと私をつかまえた。

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