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025. 出家

迷いに迷っていた私が出家を決めたのは、『サンデー毎日』の反オウムキャンペーンがきっかけだった。オウムに出家した子どもの親たちが「被害者の会」を結成し、その訴えを週刊『サンデー毎日』誌が大々的に連続で取り上げたのだ。

批判は「多額の布施を要求する」「未成年の出家」「テレフォンカードに至るまですべてを布施させる出家」などという内容だった。

未成年は問題に違いない。でも、すべてを布施して出家するのは当たり前のことではないだろうか。本来、出家とはそういうものではないのか?
現世と真逆な価値観のオウムにしてみれば、「どこが問題なのか?」と思えるマスコミの糾弾は「弾圧」としか思えなかった。

親から逃げるように出家する未成年者はたしかにいたようだが、誌面で訴えている親のなかには、三十歳の成年の子どもが出家しているケースもあった。「子どもを返せ」という親の主張は、オウムのなかでは「うちの親が被害者の会でさあ。困ってんだよね…」という子どものため息でかき消された。

私には、それは家庭の問題、それぞれの親子関係の問題を持ち込んだ茶番にしか見えなかった。オウムの評価はすぐに正されるだろう。そんな茶番劇が終わるのを待つようにして出家するのは「なんだか嫌だな…」と思った。

こうして確信がないまま私が出家を決意したのは、マスコミの激しさを増す反オウムキャンペーンのためだった。

私は田舎に帰り、両親にオウム真理教に出家しようと思っていることを告げた。兄が在家でやっているので心配はいらないこと。しばらくは連絡できないが、ある時期がきたらそれも自由になるからね、と安心させた。
父も母もいきなり宗教と出家の話を聞いて困惑し、言葉もなかったが、出家を止めることはなかった。

「とにかくやってみるわ」

私は、親が心配しないようできるだけ明るく言って別れた。

こうして、持っていた現金百数十万円と仕事道具のカメラ機材一式を布施して、私は出家することになった。

出家にあたって許されていた持ち物は、衣装ケース二個分の私物だけなので、持っていた家財道具すべてを処分し、夏物と冬物の実用的な衣類を選んで衣装ケースに詰めた。
それを世田谷道場に持ち込むと、深夜零時過ぎに出る「荷物便」と呼ばれていた富士と東京を往復するワゴン車に、同じ日に出家する年下の女性二人と、たくさんの雑多な荷物と一緒に詰め込まれて、私はオウム真理教富士山総本部道場へ向かった。

隣にすわった二人は、ぎりぎりまでビラ配りバクティをしていたらしい。出発するとすぐに熟睡して頭が私の肩にもたれかかってくる。オウムでは身体の接触はエネルギー交換になるからと避けるのが普通だが、よほど疲れているのだろうと、そのままにしておいた。

あんなに悩んで決めた出家なのに、だれの見送りもなく、ガラクタのような荷物と同じに運ばれることに、私は少し戸惑い心細い気持ちがした。
もう家もなく、仕事もなく、最低限の荷物だけになった。

「それが出家。解脱・悟りを目指す修行者なんだから、財産や個人的な感情や情緒は必要ない…」

何度もそう自分に言い聞かせて、見知らぬ女性の頭の重さを肩に感じながら、私は富士に向かうワゴン車の窓ガラス越しに中央高速の灯りをぼんやり見ていた。


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