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080. 吐き気

メディアを通じて次々に明らかになる教団の犯罪事実を見ても、私は冷静に立ち止まって考えることはできなかった。そのなかで、坂本弁護士一家の遺体が発見されたことを報じる新聞の一面を見たときのことはよく覚えている。

緊急対策本部でマスコミ対応をしていた私は、毎日あらゆる新聞や雑誌テレビの報道を目にしていた。オウムに関する記事は、私が実際に知っているオウムとあまりにかけ離れていたので、

「どうせマスコミはまたデタラメを…」

そう思って見出しを見るだけで真剣に記事を読まなかった。
ところが、坂本弁護士一家の遺体が、アングリマーラ師(岡崎一明)の自白通りの場所で発見されたことを報じる各紙の一面記事には目が釘付けになった。見出しを読むだけでも、坂本弁護士一家殺害はオウムの犯行であることは明白だった。

最初は信じられなかった。百歩譲れば、坂本弁護士を殺害することには教団なりの動機があったのかもしれない。しかし、なんの関係もない妻や一歳になったばかりの赤ちゃんを殺すことに、いったいどんな理由があるというのだろうか? 

そんな疑問がわきあがってくる直前、私は「うっ」と吐き気をもよおした。
そして、何事もなかったかのようにワークに戻った。広報部のファックスは途切れることなく取材の申し込みを吐き出していた。それを分類し、整理し、スケジュールを調整し、返事を送った。次に何がおこるかわからない教団の切迫した状況と、押し寄せるメディアとの戦いの最前線にいて、やるべきことはたくさんあった――。

青山道場の地下には「アンタカラ」という喫茶室があった。入会案内や信徒さんとの面談に使われていたが、事件後はマスコミの取材、外部の人とのさまざまな打ち合わせに使われるようになっていた。
強制捜査の大混乱のすぐあとだったと思う。宗教学者のX氏がずいぶんあわてた様子でマイトレーヤ正大師に会いにやってきた。アンタカラには一般席と個室があった。X氏と正大師を個室に案内した私は、ドアが閉まる寸前に著名な宗教学者の興奮した声を漏れ聞いた。

「覚者の救済計画というものが本当にあるんだと、覚者の救済計画が、本当にあるんだということが…」

「救済計画」という言葉はオウムでよく耳にした言葉だ。

「この人はいったい何を言っているんだろう? まるでオウムのサマナのようなことを言っている…」

そう思って閉まる個室のドアを見た。

四月、アンタカラに降りる階段付近で、マンジュシュリー正大師(村井秀夫)が暴漢に刺された。右のわき腹から大量の血を流して意識を失って横たわっている高弟のそばで、私は多くのサマナとともになすすべもなく立っていた。

五月、第六サティアンに身を隠していた教祖が逮捕された。警視庁へ護送される車中の教祖の姿が、テレビから何度も何度も流れていた。


教祖逮捕


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