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イリュージョン04. 「君の名は、シン・ゴジラ。」

電話をかけてきた作家のTさんが開口一番言った。

「麻原さんて、不知火の海からやってきたゴジラのような存在だと思うの…」

「は?」

最初はなんのことだかわからなかった。オウムについての取材をしているTさんは、私にとっては突っ込んだ話ができるただ一人の一般の方だった。メールのやり取りをしたり、会って教義や修行や事件の話をしていたが、いきなり電話でこんなことを言ってくるなんて、Tさんはよほどこのひらめきを話したかったに違いない。

広島・長崎への原子爆弾投下と敗戦、ビキニ環礁水爆実験と第五福竜丸の被爆…ゴジラという存在は、日本が経験した「核」による破壊と犠牲の象徴のようなものではないか、ゴジラが近代科学兵器の落とし子なら、“アサハラ”は同じように水俣事件に代表される近代資本主義の落とし子、日本の近代化によって破壊され犠牲となったものの象徴的存在と見ることができるのではないか――Tさんが熱心に語る災厄と犠牲と鎮魂の話を聞きながら、私はぼんやりとそんなふうに理解していた。

私はずっと麻原彰晃という宗教家が生まれた時代、そしてオウムという宗教団体を作り、霊的覚醒を強く求め、破滅していったことの意味を模索してきたので、「ゴジラ」と「アサハラ」が似たような存在ではないかというとらえ方は、オウムという現象をつかみとる一つの手がかりになりそうな気がした。

さっそく図書館へ行って、Tさんが紹介してくれた『ゴジラとナウシカ』と、本棚で目についた『ゴジラの精神史』という本を読んでみた。

一九五四年十一月に公開された初代『ゴジラ』制作の背景には、アメリカによるビキニ環礁水爆実験と、第五福竜丸乗組員の被爆という事件があり、怪獣娯楽映画『ゴジラ』はたしかに「反核」の精神を宿していた。そして、『ゴジラ』公開から三か月後の五五年三月二日、麻原彰晃は不知火海沿岸の金剛村に誕生する。そのころすでに不知火海の水銀汚染は進み、翌五六年には最初の水俣病の患者が公式認定されている。

このように照らし合わせてみると、Tさんの「麻原彰晃という存在は不知火海からやって来たゴジラのような存在ではないか」という一見突飛なアイディアも、それほどおかしな話ではないのかもしれない。

ちなみに日本のゴジラ映画シリーズは二〇〇四年公開の第28作『ゴジラ FINAL WARS』で終了したが、これは麻原彰晃の一審死刑判決が言い渡された年でもあった。その後、控訴の手続きが意外なかたちで突然打ち切られ、一審の死刑が確定してしまう。はじまりと同じように、ゴジラとアサハラの物語は時を同じくして終了したわけだ。

『ゴジラ FINAL WARS』から十二年後の今年、ゴジラは『シン・ゴジラ』として再びよみがえった。そして、一か月遅れて公開され大ヒットした映画が『君の名は。』だ。私は『君の名は。』と『シン・ゴジラ』を続けて観たのだが、まったく違う映画なのにその中核にはよく似たイメージがあることに気づいた。

『君の名は。』という物語の主軸になっているのは「ティアマト彗星」の飛来と破壊なのだが、長い尾を持つ彗星は、古代から天空の蛇である「竜」のイメージと重ねられていた。一方のシン・ゴジラは、最終形態では胴体が118.5メートル、尾っぽの長さは200メートルを超える。身体に対してアンバランスなほど小さい手(前肢)を持つシン・ゴジラは、長い身体をうねらせるようにして街を破壊していくのだ。

私には、「ティアマト彗星」と「シン・ゴジラ」という巨大な蛇(竜)が、天空と海底からやってきて爆発的ヒットを生み出しているようにも思えた。蛇や竜はクンダリニーの象徴でもある。破壊的でありながら同時に正反対のものが結びついて生まれるダイナミックな創造のエネルギーをあらわしている。

もちろん、このようなことはすべてイリュージョンでしかないが…。

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Tさんの「アサハラ・ゴジラ説」はいろいろなことを考えさせてくれた。
まず、ゴジラ映画が28作も作られていたなんて驚きだった(アメリカで作られたものは含めない)。日本人にとってゴジラは特別な存在、“荒ぶる神”のようなものかもしれない。同じようなことが原子爆弾(核エネルギー)についてもいえる。日本人が、広島・長崎の被爆、第五福竜丸の被爆、福島の原子力発電所の事故という核による甚大な被害をこうむりながら、今なお原子力政策の根本を見直さないのは、核エネルギーに“荒ぶる神”を投影しているからなのかもしれない。原爆の父と言われている物理学者のオッペンハイマーも「原子力は生と死の両面を持った神である。」と言っている。

このように相反する両面を持った神は――オウムの本尊「グヤサマジャ」も同じだが、破壊力と創造力が結びついた莫大なエネルギーを有している。この神のエネルギーに魅せられ、とり憑かれる(同一化する)とき、無意識のうちに人はどのように行動するようになり、その結果なにが引き起こされるか…それこそオウム事件から学ぶことのできる重要な教訓なのではないだろうか。

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