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028. 配属は編集部

五日間の「千尋の谷の修行」をどうにか終えた私は、編集部に配属されると告げられた。

編集部は道場の中二階にあり、そこは教祖の説法を管理し流布する広報活動の中枢「デザイン」「編集」「国際編集」が占めていた。

編集部に案内されると、私が使うスチール机と当時普及し始めていたパソコンが一台用意されていた。(まだワープロ主流の時代オウムはパソコンを導入していた)。上長になるクンダリニー・ヨーガの成就者の大師から、ワークと呼ばれる日々の仕事について説明を受けているとき、唐突に「出身地はどこ?」と聞かれた。

「岐阜県です」
「岐阜県のどこ?」

私が生まれ育ったのは郡部で、地名を言ってもどうせ知らないだろうと思いながら答えた。

「岐阜県の田舎ですよ。Kという小さな町があるんですが、そこで生まれ育ちました」
「えー、私の両親は二人ともK町の出身なんだよね」

大師は驚きの声とともにそう言った。

「私が生まれたのは東京なんだけど、本籍は両親が生まれて育ったK町なの。小さい頃は毎年夏休みになると祖父母の家に行ったわ」

東京都の同じ区の出身者が同じ部署だった、というなら珍しくもないだろう。でも、岐阜県の片田舎人口数千人の小さな町に縁のある者同士が、富士道場で上長と部下になる確率はかなり低いのではないだろうか。

「やっぱり縁があるんですねえ~」

まわりで聞いていたサマナから驚きの声があがった。
縁がある、縁が深いということは、オウムでは意味のあることだった。

編集部に配属されて、私がまず驚いたことは、そこにいるだれもが自分のパソコン周りに、オウムの出版物から切り抜いた大小さまざまな麻原教祖の写真を、ベタベタと貼りめぐらしていることだった。そうやって常に「グルを意識」してワークをすることが、修行を進めるうえで重要だとされていた。
その様子を見て、私はひどく場違いなところに来てしまったような気がした。

「こんなところでやっていけるのかなあ…」

さらに驚いたのは出家修行者たちのずば抜けた集中力だった。
新人に与えられるワークは、教祖の説法テープを聴いてひたすら文字に起こすことで、私は三十分もテープ起こしをすると集中が途切れてあたりの様子をうかがった。見渡すとだれもが黙々と二時間三時間とわき目もふらずに平気でキーボードを打っていた。もちろんおしゃべりする人はだれもいない。和気あいあいとした在家信徒のバクティ(奉仕)と違って、出家では一日十五時間のワークも珍しくなく、出家者たちはワークを「修行」ととらえていた。

俗世を離れてエネルギーをロスしない生活は、普通では考えられないほど集中が高まる。オウムが短期間に多くのことを成し遂げた背景には、修行者たちのこの並外れた集中力があった。

見習い期間の三か月を終えて、私は正式にオウム真理教の出家修行者・サマナになった。
その頃には、現世を離れた質素な富士での生活にも馴染んで、解脱という明確な目標がある出家生活が楽だと思うようになっていたが、「グルへの帰依」「グルを意識する」というサマナの鉄則にはやっぱり抵抗があった。

「あんなに何枚も写真を貼りめぐらさなくても、一枚で十分」

そんな思いでいた。
上長の大師は苦笑いしながら言った。

「編集会議のとき、尊師があなたのことを『信徒なみの帰依だ』って言っていたわよ。もう、しっかりしてよね」

それでも、私は「解脱」を経験してみたかった。それさえできれば、いつオウムをやめてもいい。だから、とにかく一日も早く成就のための極厳修行に入りたかった。

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