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089. いわきへ

一九九六年十月三十一日、オウムは富士・上九一色村の全施設から退去することになっていた。

この日、第六サティアンに最後まで残っていたアーチャリー正大師と教育係のガンダー師と私、東京からやってきた広報部の荒木君の四人で、第六サティアンのなかをざっと確かめてまわった。

明日からはだれもここに入ることはできないのだ。
最後にみんなで道場で立位礼拝をした。
荒木君がサティアンの扉を閉めて鍵をかけた。

建物を出て少し歩いて振り返ると、第六サティアンは傾きかけた秋の陽光のなかに濃い影を落として静かに立っていた。麻原教祖が神々に供物を捧げ、さまざまな祭典を執り行い、アンダーグラウンド・サマディ、パーフェクト・サーヴェーション・イニシエーション、そして説法をした場所だった。

すべてが夢のように感じられた。

「さようなら、第六…」

私は心のなかで別れを告げて、車に乗り込みエンジンをかけた。

そして、正大師と一緒に転出証明書をもらいに富士宮市役所に行った。
簡単な手続きのなかで書類に本人のサインが必要だった。「ここに名前を書いてください」と言って書類とペンを渡すと、アーチャリー正大師は一瞬とまどった。ペンを取って、署名欄にどうにか判読できる「松本」というゆがんだ字を書くと、次に続く名前は書けなかった。

そう、十三歳の正大師は自分の名前が書けなかったのだ。びっくりした私は紙に大きく「麗華」と書いて見せた。アーチャリー正大師は、ぐちゃぐちゃな線でなんとか自分の名前らしきものを書いた。確かに画数の多い難しい字ではあるが…。

私は「識華」に帰らず、アーチャリー正大師のグループに入った。ステージの高い人につくのはサマナにとって名誉なことだが、精神が壊れたような私は正大師が引き取るしかなかったのだと思う。

その頃のことでよく覚えていることがある。東京のどこか雑然とした駅前のマクドナルドだった。私はアーチャリー正大師と二人で、マクドナルドの座り心地の悪い椅子にかけて向かい合っていた。店は混雑していて周囲の若者たちの話し声がうるさかった。

私は泣いていた。

「もう私はだめなんです。もうやっていけません…」

そう言って流れる涙をぬぐった。正大師は黙って聞いていた。そうする以外になかっただろう。私は気が狂いそうで本当に助けてほしかった。教祖がいない今、だれが私のこの状態を見極め、適切な指導をしてくれるのだろうか。いったいだれが私を救ってくれるのだろうか。

そうやって泣きながら、同時にそれを見ている別の私がいた。

――いい年をした大人が、十三歳の女の子に「助けて」と泣いてすがっている。
これはかなりおかしなことじゃないか? 
絶対に変だよね。
あなた、いったいなにをやっているの?――

こんなふうに妙に冷静に客観的に見ている自分もいた。

私たちはウィークリーマンションを転々としながら、正大師用の住居が準備されるのを待っていた。しばらくすると福島県いわき市に取得した競売物件に入れることになった。

行ってみると、そこは会社の保養所として使われていた大きな屋敷だった。
背の高い板塀に囲まれていて外から中の様子は見えない。太いかんぬきで閉ざされた門の横にある通用口から敷地に入ると、広い庭があった。伸び放題の草が十一月のやわらかな太陽の光を浴びていた。

そこは騒がしい世間とは隔絶された空間だった。
庭の奥には堂々とした木造の屋敷が正面から見下ろしている。立派な石造りの階段を上ると玄関ホールだった。右手には広いダイニングキッチンがあり、やけに立派な対面式カウンターの向こうのダイニングスペースには、天窓と部屋の三方から明るい陽の光が入っていた。玄関左手には暖炉のあるリビング。そこから裏庭に降りてみると、小さな飛び込み板もある十五メートルほどのプールがあった。その他に三つのベッドルームと二十畳ほどの広間もあり、バブル期の臭いのするお屋敷だった。
富士や上九の体育館のような建物で雑魚寝が当たり前の生活から、今や住むところさえ定まらない私たちには、魔法であらわれたような「お屋敷」だった。

到着して屋敷の内部をひととおり見たあと、アーチャリー正大師が無邪気に言った。

「ねえ、プールで泳ごうよ!」

プールにはたしかに水が張ってあったが、水面には紅葉した落ち葉がたくさん浮いていた。晩秋の外気は冷たく、もう外で泳ぐ季節ではなかった。

「きた…」

私は嫌な予感がした。

「ここでまた観念崩壊セミナーがはじまるのだろうか」

のべにしたらおそらく五百人以上のサマナの「観念崩壊」を企てたセミナーだった。そこで積んだカルマを思うと、いわきでの今後が思いやられた。私たちは大急ぎで水面に浮いた落ち葉を網ですくい、風呂を沸かし付属していた小さなサウナを暖めてから冷たいプールに入った。
正大師は楽しんでいたのだろうか? おつきの私たちはだれも楽しんでいなかったと思う。

こうしてアーチャリー正大師の部署「いわき」で、十人ほどの生活がはじまった。


※トップ写真:第六サティアン跡地(2016年2月撮影)

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