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083. 教祖初公判

一九九六年四月二十四日、麻原教祖の初公判の傍聴券を求めて一万二千人以上が列をつくった。サマナもできるだけ並んで教団関係者の傍聴席を確保しようとした。それ以降は、教祖の公判のたびに動員されたサマナが列に並び、抽選で当たった傍聴券はステージ順に割り振られて順番に傍聴するようになった。

私に傍聴の順番がきたのは梅雨明け頃だったと思う。
地下鉄丸の内線霞ヶ関駅の地上出口を出ると、すぐ目の前が東京地裁だった。公判開始前のロビーには、明らかにマスコミ関係者とわかる人たちがいた。もちろん私たちがオウムだということも一目瞭然だっただろう。流行とは無縁の服装、くたびれた靴、やや表情の乏しい顔、そして一様にウォークマンのイヤフォンをつけている――というのがサマナの外見的特徴だった。

マスコミ関係者らしい人の輪のなかにはオウムウォッチャーの江川紹子さんもいた。オウムを批判する人物を見ると、心は反射的に身構えるような緊張を覚えたが、彼らの方では私たちのことを「かわいそうなカルトの犠牲者」と内心あわれんでいただけだろう。

開廷時間がきて私は真ん中の三列目に座った。
二人の刑務官に伴われ、手錠と腰紐をした紺のジャージの上下を着た教祖が入ってきた。生身の教祖を見るのは一年以上ぶりだった。

私は、ほんの五、六メートル先にすわっている教祖を見つめた。言葉や身振りでなくていい、こちらに向ける一瞥か、私が感じることができるなにかを期待していた。そんな私の思いとは裏腹に、教祖はそこで起こっている出来事とも、そこにいるだれとも、もちろん万感の思いで見つめる弟子たちとも、一切関係なくただそこにすわっているだけだった。

「尊師!」

心のなかで、私は一度だけ呼びかけた。
カメラのファインダーをとおしてずっと麻原教祖を見つめてきた私には、そこにかつての教祖を見つけることはできなかった。
法廷の教祖は印象が薄く、もうほとんどその姿を思い出すことができない。十年にわたる教祖の公判で、私が傍聴を希望したのはそれが最初で最後だった。

私が勾留中の教祖の言葉を重く受け取らなくなったのは、同じ時期に行なわれた破防法(破壊活動防止法)(1)の弁明手続きの意見陳述を伝え聞いてからだった。
破防法は団体の解散命令に始まり、団体に所属する者、団体を支持する者を根こそぎ検挙してしまう恐ろしい法律だ。それが成立したら教団は完全に壊滅する。弁明手続きのなかで、教祖は教義についてのさまざまな質問に答え、教団が今後破壊活動を起こす危険性はないこと、自ら代表を降りることを約束した。そして、こう言った。

「外にいる弟子たちの修行場を取り上げるようなことはどうかやめてください」
「私の一身にかえて、弟子の修行場を取り上げないでください」

弟子の修行を気遣う教祖の懇願に私は違和感を覚えた。

「今さらなにを言っているのだろうか…事件さえなければ、弟子が修行場を失うことなどないのに…」

地下鉄サリン事件が起こってから、私たちは世間の轟々たる非難にさらされていた。教祖の公判は始まったばかりだったが、弟子が指示もなくそんな大それたことをするとは考えられない。地下鉄にサリンを撒くなんてことをすれば教団が壊滅するのは当たり前なのに、弟子たちの修行環境を守ろうとする教祖の言葉は、現実とあまりにも乖離しているように感じた。(2)


(1)破壊活動防止法は、政治目的とする暴力的破壊活動団体の規制を目的に1952年(昭和27年)に施行されたもの。1995年当時の首相村山富市氏が適用手続きの開始を了承したことで、12月20日公安調査庁がオウム真理教に対して処分請求をした。その弁明手続きの一環として教祖は1996年5月15日と28日に東京拘置所で弁明を行なった。1997年1月31日公安審査委員会が要件を満たさないとして適用は見送られた。その代わりに「団体規制法」が制定・適用された。オウムの後継団体アレフやひかりの輪は、現在も観察対象になっている。
(2)安田好弘弁護士(国選弁護人の一人)の著書には教祖の破防法についての考えが書かれている。
「95年10月、当時の社会党・村山政権は、過去どの政権も適用してこなかった破防法の適用を申請した。
麻原さんは、躊躇なく言い放った。

『破防法は下世話な話である。宗教は、そのような話と次元を異にする。オウム真理教はそのようなものでは消滅しない。宗教は三人おれば成り立つ。弾圧されれば、バラバラになって、それぞれの者が、それぞれの宗教を実践すればいいではないか』
私は、その発言を聞いたとき、彼の宗教者としての姿を見た気がした。
しかし、麻原さんの考えには多くの人が反対した。戦後五〇年間、一度も発動させなかった破防法をオウムの宗教観だけのために適用させてはならない。」(『死刑弁護人 生きるという権利』(講談社+α文庫p351)

弁明手続きの発言は教祖の本来の意向とは違っていたようだ。

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