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090. 「学校へ行きたい」

いわきのお屋敷の住み心地は見かけほど良くはなかった。雨が降れば、雨漏りがしてバケツや洗面器をいくつも置いておかなければならず、フローリングの床からは冷気が上がってきて底冷えがした。建物のすぐ裏の竹が生えた山の斜面から強い湿気がくるため、プール側に作られた檜の露天風呂は腐っていた。建物は立派でも全体の「気」は陰鬱な感じだった。

庭の隅の小屋を仕切って作った三室のうちの一室が私の部屋で、二畳ほどのスペースでもリトリート修行ができると思えば天国だった。そうやって教団の活動から離れて静かな環境にいれば、精神状態を立て直せるのではないかと思っていたが、一度壊れてしまったものを元に戻すことはできなかった。それに上手に慣れるしかないことをずいぶん後になって理解した。

アーチャリー正大師は、他の兄弟が住んでいる茨城県の旭村を行き来して留守にすることが多かった。
その頃の正大師は、両親ともに逮捕され、「おにいさん」「おねえさん」といって一緒に遊んだ多くの身近な高弟たちを失い、マスコミに追いまわされ、世間からは教祖の子どもと白眼視され、まだ幼い弟たちを守らなければならず、母親の違うたくさんの兄弟がいることがあきらかになり、何百人ものサマナ・信徒からは、教祖に一番近い後継者として期待が寄せられていた。

当時のことを振り返ると、あまりにも過酷だっただろうと思う。アーチャリー正大師はまだ十三歳だったのだ。正大師が一番望んでいたことは「学校へ行く」ということだった。拘留中の教祖も学校へ行くことに賛成だったようだ。教育係のガンダー師は、正大師の希望をかなえたかったし、教育の必要性をわかっていたのだろう、いわき市の中学校へ入学するための交渉を粘り強く進めていた。

正大師はみんなに聞いて回った。

「学校は制服だった? 私服だった?」

それぞれ自分が通った学校の様子を話した。

「学校なんて行ったって、しかたないですよ…」
私は口に出そうとしてやめた。小学校、中学校、高校、大学と当たり前に進んだ者が、それがまったくかなわない少女に言うべきことではなかった。

だれかがたずねた。

「なぜ、そんなに学校へ行きたいんですか?」

アーチャリー正大師は、はっきりとした口調でこう言った。

「私は学校へ行きたい。学校というところへ、行きたいの」

自分はこうしたい、正大師がそういうふうに言うのを聞いたことがなかったので、私はこの言葉をよく覚えている。あのなにもかもが異常な事態にあって、普通に学校へ行こうとすることが、正大師のなにかを支えていたのかもしれない。

いわき市の教育委員会は、小学校さえ行っていないことを理由に、遅れている勉強を小学校五年生から始めるならと言ってきた。同い年の友だちが欲しくて学校へ行きたいのに、小学生と一緒だと知ってショックを受けた正大師は、しばらく考えて言った。

「それでもいいから学校へ行きたい…」

しかし、最初は学校とは別の施設でしばらく様子を見ながらで、その状況は地域の人たちに報告されるという、とても教育を求めている子どもを守るような姿勢ではなく、結局教育委員会には正面から受け入れるつもりがないことがわかってきた。

アーチャリー正大師からは深い絶望が伝わってきた。
そのうちに、正大師はカッターナイフで自分の腕を傷つけるようになった。笑ってその傷痕を見せても、正大師の心の叫びを聞き取れる大人はまわりにはいなかった。

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