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富士へ ④みろく物語

今から三百年ほど前、「みろく」を自称する修行者がいた。彼は富士山とその神々を信仰する富士行者だった。名を食行身禄(じきぎょう・みろく)という。

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身禄は、寛文11年(1671)に伊勢国の農家小林家の三男として生まれ、13歳のとき親類を頼って江戸に出た。

17歳のとき月行げつぎょうという名の行者に出会う。月行は、富士山麓の人穴洞窟で修行した角行かくぎょうという行者の流れをくむ富士行者だった。月行に入門した身禄は、断食行を意味する「食行」という行者名を授けられる。

身禄の修行は、毎日、早朝に水をかぶって身を清め、富士の神々を供養し、修行の成就を祈願し、師の教えを学び、昼も夜も懸命に働きながら、年に一度富士山に登拝するというものだった。生涯に富士登拝45回、御中道おちゅうどうという、富士山五合目辺りを鉢巻状に一周する修行を3回行なっている。御中道は途中に大沢の崩壊地があって、そこを渡るのは命がけだったという。

身禄は五尺(151センチ)そこそこの小柄な男で、信心一筋の少々むずかしい人物であったという。富士登拝の際には、神がかってくると真夜中でも早朝でもかまわず御師おし宿の祭壇の前で大声で祈る奇癖があった。彼の説法は時に神に憑かれたかのようで、世に「気違い身禄」「乞食身禄」とはやし立てられた。

享保7年(1722)正月17日夜10時、身禄は瞑想中に「じきぎょうみろくぼさつ」と呼ぶ神の声を聞く。この夜の神秘体験を境に食行の下に身禄を加えて、自ら「食行身禄」と名のるようになった。信心に入って35年め、52歳の誕生日のことだった。

享保15年(1730)、身禄は富士山頂で神の啓示を受け、近い将来富士で入定(断食死)することを決意し、下山後ただちに全財産を縁者に分配した。それからは、油売りの行商で日々の生計を立てながら布教に努めた。68歳で入定する心づもりだったが、飢饉の到来と世相の乱れによって、5年早めることを決断する。

享保18年(1733)6月16日、身禄は富士山七合五勺の烏帽子岩で厨子を組み立て、その中に入って断食を開始。その死までの間、一日一話の講釈を付添人の田辺十郎右衛門に口述した。それを筆記したものが『三十一日の巻』である。

こうして食行身禄は「救世済民」「みろくの世」の到来を祈念して31日後に息絶える。享年63歳。残された子どもは三人、長女うめ18歳、次女まん16歳、三女はな9歳。身禄はまだ幼い三女を後継者とした。

生前の身禄にはそれほど多くの信者がいたわけではなかった。弟子の一人で造園師でもあった日行(高田藤四郎)は「身禄同行」という講を興し、身禄の三十三回忌に向けてモニュメントとして富士塚を造営した。その後、富士講によって200基以上造られる富士塚の第一号だった。

その他の身禄の弟子たちや、子どもたちも講を立て、それらの講から弟子が分家し、枝講は鼠算的に増加していった。

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以上が、『富士講の歴史 江戸庶民の山岳信仰』(岩科小一郎著)を参照してたどった食行身禄の物語である。富士行者のような山岳修行者には、人々の減罪を願い、災難をはらうために苦行をする「代受苦だいじゅく」すなわち「他の苦しみを背負う」という宗教的な考え方があった。その極致は、さまざまな形での行者の自死である。火定(焼身)、入定(土中入定)、入水、捨身(断崖投身)などがあった。

富士のみろく物語

食行身禄は教祖のような存在ではなく、熱心な行者だったようだ。身禄以前にも富士山で入定(断食死)した行者はいたのだが、身禄の入定の後に富士講という宗教が広がっていくのは、その時代の精神に身禄の宗教物語が強く共鳴したからだろう。特に、世相が悪化していく江戸後期になるほど隆盛し、幕府は何度も禁止令を発した。

食行身禄の系譜は、

食行身禄 → 三女はな(行名「一行お花」)→ 伊藤参行 → 小谷三志

まだ9歳だった三女を身禄が後継者としたのは、52歳のときの神秘体験と関係していたのではないだろうか。「みろくぼさつ」と呼ぶ神の声を聞いた翌年に生まれた三女に、身禄は特別な思いがあっただろう。はな(花)という名も、富士山の女神である木花咲耶姫コノハナサクヤヒメにちなんだものではないか。

三女は行名を「一行」と名のり、父の意思を継いで富士信仰の道に入った。一行が43歳のとき21歳の青年が弟子入りして同居する。後の伊藤参行である。1789年、一行はなは亡くなった。華蔵院蓮葉法身大師、享年66歳。そして1809年、一行の弟子伊藤参行は「天の御用は済んだ」と言って断食入定する。享年64歳。参行は「自分は身禄の生まれ変わりであり、(自分の)娘いよは一行はなの生まれ変わり」と説いていたという。

ちょうどその頃、富士講は「江戸八百八講、講中八万人」といわれる文化・文政期(1804~1830)の繁栄を迎えていた。

――今から三百年前、富士山が生んだみろくの物語である。



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