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私とオウムと萩尾望都

「100分 de 萩尾望都」

2021年お正月のEテレで「100分 de 萩尾望都」をやっていた。
NHKで少女漫画家が特集される――それもお正月の特番だなんて! 

かつて村上春樹さんは、オウムに入るような人たちは物語を読んで育ってこなかったのではないか、と言ったことがある。

村上さん風に言えば「やれやれ」だ。

私がオウムの出家者だったころ、まわりにサリンジャーが大好きな人もいたし、萩尾望都について共に熱く論じ合った人もいた。好きな本をあげてと言われたら、私は躊躇なくルーマー・ゴッデンの『台所のマリアさま』とカニグズバーグの『ジョコンダ夫人の肖像』と答えて、それがどんなに素晴らしい物語なのか半時間は語れるだろう(どちらも児童文学なので知っている人はあまりいないだろうけど)。

『トーマの心臓』

そして、私にとって「好きな本」というくくりに入らないのが萩尾望都の『トーマの心臓』なのだ。

幸運なことに、私は十代でこの作品に出会った。あの頃、繰り返し繰り返し、最低でも確実に百回以上は読み返しているはずだ。そこまで読み込んで、どのコマもどのセリフもほとんど暗記してしまった『トーマの心臓』は、私にとって単に好きな本ではなくバイブルのようなもの。

大学に行ってからはいろいろな本を読むようになった。海外の児童文学、宮沢賢治、エリザベス・キュブラー・ロス。映画もずいぶん観た。そして、社会人になり、やがてオウム真理教に出会った。ちょうど昭和が終わり平成が始まった1989年の春のこと。

それまで私は、オカルトにも超能力にもヨガにもまったく興味がなかった。雑誌に当たり前に載っている「今月の運勢」のような占いも、迷信だと思って暇つぶしにさえ読んだことがない。目に見えない神や仏を信じる宗教なんて時代遅れの遺物。まして新興宗教なんて、私の人生には「あり得ない!」ものだったはず。

でも今となって思うのは、人生って、この「あり得ない!」ものと出会ったときから本当の意味ではじまるのかもしれない、ということ。

キリストの物語

私の人生最大の「あり得ない!」はオウム事件だった。オウムをやめてから、あのあり得ない事件が起こったことについて必死に考えた。その期間に読んだ本の量も人生最多だった。深層心理学、社会心理学、神話学、宗教学などなど。そして、あるときふと思いついたことがあった。

「ああ、子どものとき夢中で読んでいたトーマの心臓って、キリストの話だったんだな…」

「100分 de 萩尾望都」でも評論家が同じような解説をしていたから、私の思い込みというわけでもないんだろう。十代の私がまるでバイブルみたいに『トーマの心臓』を繰り返し読んでいたのも、そういう意味で自然なことだったんだと思う。キリストの物語というと、あのイエス・キリストについての物語だと思われるかもしれないが、そうじゃない。誰かが誰かのために自分の命を犠牲にするなら、そういう人はみんな「キリスト」なんだということ。

遥か昔に夢中になって読んだ『トーマの心臓』という犠牲と贖いの物語の意味が明らかになったのは、オウムという経験について深く掘り下げて考え抜いたからだ。そして、きっとこれが私にとってのオウムという現象の意味でもあるんだろう。


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