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「わかってほしい…」

本当のオウムを

1995年3月、地下鉄サリン事件が起きてからというもの、オウムに対するごうごうたる非難は長いこと鳴りやむということはありませんでした。

私は最初、「きちんと説明する機会があれば、オウムのことをわかってもらえるはずだ…」と思っていました。教団のごく一部が、あまりにもひどい事件を引き起こしたために、オウム全体が邪悪な犯罪集団のように思われているけれど、私たちが目指していたものや、日々やってきたことを説明すれば、本当のオウムは違うんだということがわかるはずだと、あまりにもナイーブに信じていました。

事件直後から教団広報部でメディア対応をしていた私は、受けた取材が現実にどう使われ報道されるかを見てきました。やがて、メディアにはもともと「意図」というものがあって、それに沿って取材をしているにすぎないということがわかってきました。あるがままを報道しようとしているわけではなかったのです。どんなメディアの取材であろうと、こちらがどんな受け答えをしようと、できあがってくるものは例外なく、メディア側が意図しているストーリーに落とし込まれていただけでした。

わかっていないのは

オウムのサマナ・信徒の多くは、とても純粋で世間知らずでしたから、取材を目的に近づいてきた人が少し熱心に「なるほど、そうなんですね」「わかります」などと、こちらの話にうなずいて耳を傾けてくれれば、「この人なら信用できる」「あの人はオウムをわかってくれる」という淡い期待をいだいてしまい、本当に何度も何度もバカみたいに(!)だまされました。

私は、メディアの人を信じては裏切られ、また信じては裏切られる仲間の姿を見ているうちに思いました。

「私たちに、わかってほしい…という甘えがあるんだろうな。『世間はオウムのことをわかっていない』と私は思っているけど、でも、もしかしたら、オウムをわかっていないのは、実は私の方なのかもしれない。オウムのなかにいる私がわからないものを、どうして世間の人にわかる?」

探究のはじまり

それから五年後、刑期を終えた上祐氏が教団に帰ってきて内部が落ち着きを取り戻すと、私はオウムとはどのような宗教だったのかを、自分なりに突き詰めて考えるようになりました。麻原教祖の膨大な説法・講話を時系列にそって読み直すことはもちろん、宗教学や宗教史、深層心理学や神話学、精神医学などかなり多くの専門書を読みました。私の書棚に並んでいるたくさんの本を見ると、麻原教祖が出家してきた私に笑いながら言った最初の言葉が、ふと思い出されます。

「また、くだらない本をたくさん読んできたんだろう」
(「30.直弟子と説法」参照)

まったく無意味なことをしているような気がすることもありましたが、私は麻原教祖とオウムという現象をなんとか理解したいと必死でした。

「あれはいったいどういうことだったの?」
「どうしてこうなっちゃったんだろう…?」

疑問はたくさんありました。考え続けて、自分なりに納得できる答えが得られる場合もあれば、そうでない場合もありましたが、あらゆる疑問に意識を向けてずっと考えてきました。

なにもかもそれでいい

随分経って、あるとき、晴れわたった空のようにひとつの疑問も浮かばなくなったのです。「なぜ?」という問いそのものが消えてしまったようでした。

「あ、これで終わったのかも…」

理解できることもできないことも、納得できることもできないことも、なにもかもそれでいいんじゃないか、というさっぱりとした気持ちがしました。

そして、今はもう答えを探して書籍を貪るように読むこともなくなり、オウムのことを「わかってほしい…」という気持ちも、きれいさっぱりなくなってしまいました。

やっぱりわかっていなかったのは、私自身だったようです。


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