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[他人の趣味 写真編 ex vol.2]写真ミリしらの私が,写真好きにインタビューしてみて

 ここで,一度企画の中間的な振り返りをしておこうと思う。メモ書き程度の雑文だが,備忘録的にまず放り投げておく。

写真に興味がなかった理由

 自分がなぜ今まで写真表現に興味を持たなかったのか,改めて考えてみた。

 昔から絵を描くのは嫌いではなかった。絵と同じ視覚芸術であり,スマホカメラの発達した今(クオリティを追求しない限りは)絵よりも手軽な写真にハマらなかったのは,不思議と言えば不思議である。

 理由の一つとして,写真という表現手段は,私には「怖すぎる」。写すだけ,というシンプルさゆえ,作り手の手腕が露骨に出てしまう。自分の拙さに誤魔化しが効かず,人の目に明らかになるのが恐ろしい。
 かと言って,作品を他人の目に晒さずひたすら自己満足にとどめておくのも面白くない。
 怖い思いをしてまで撮りたくはないし,面白くないものを撮っても仕方ない。今まで写真をやってこなかったことに理由があるとすれば,恐らくこういうことなのだと思う。

 あとは,「カメラってやたら高い」と思っていたのも理由の一つかもしれない。
 だが,こうして色々話を聞いて,実際触ってみたりもすると,カメラ,全然高いと思わない。あれだけ色々凄い機能があって小さくてデザインの良い機械,高くて当然である。
 高いどころかむしろ,「学生がバイトちょっと頑張ってお金を貯めれば一応それなりのものが買える」という値段設定,あまりにも適切すぎる。マーケティングがあまりにも成功していると思う。

写真趣味の「ヤバさ」

  機材の高価なイメージから参入のハードルが高そう,と思っていた。しかし先述の通り,機材の高価さはあまり気にならなくなった。

 改めて思う写真趣味のヤバさは,参入ハードルの高さではなく「取り返しのつかなさ」。「見る目」が一気に変わるヤバさである。

 今までは,ただのありふれた風景として捉えていたものを,写真の素材になりうるものだと認識してしまうと一気に情報量が増えて頭が疲れる。「あれをこの角度から見たら構図がおもしろそうだな」とか,「あれとあれの色の対比がいいな」とか「あの半逆光良い感じやぞ」とか,そんなノリで四六時中「写真スイッチ」が入ってしまうとしたら大変なことである。その辺を歩いているだけで気持ち悪くなりそうだ。

趣味のしての写真の良さ

 趣味には,①受動的な趣味②創造的な趣味③体を動かす趣味の三つがあるらしいと聞いたことがある。その点,写真はこの三つが非常に近く,一体になっている。
 ここでは「写すだけ』という手軽さが良く作用しているように思う。やってみて思うが,①から②,③への移行が非常にシームレスだ。

 写真は,上手く撮れば単なる風景だけでなく,その時の気持ちや撮影者の感性まで残すことができる。
 文章と違って操作できない現実の要素があり,作為が働きにくい部分も多く,却って後々になって当時は無自覚だった気持ちが分かることもあるかもしれない。
 自分らしさや自分の感性をよく見つめ直そうと思う時,写真を撮り溜めて見返すというのはかなり有効な手段なのではないか,という気がする。

インタビューしてみて

 あえて興味のないことについてインタビュー企画を実践したが,全く好きでもなく興味もないことについて,知識がどんどんついてしまった。大層奇妙で気持ちが悪い感覚だった。勉強が苦手な人は,インタビュー記事を書くといい。なぜだが,意思に関わらず気持ち悪いほど知識がはいってくる。

 全く興味のないことであっても,ここまで時間をかけて調べて話聞いて,ということがやれているのは,最初に受動的に情報に触れる機会があってくれたおかげだ。かつ,それが「友達の好きなこと」という形であったことも重要だった。

 それによって,わたし的,話の面白さを担保する2大要素「理解できること」「話し手の気持ちが入っていること」が確約されていたからである。また,リアルタイムで話を聞けるため,「疑問をすぐに解決できる」ことや,「自分も時々話させてもらえる」も次点で重要だった。

文章と写真

 物事を文章にするのは写真と同じである,と思う。自分が良いと感じたものを,別の表現方法で仮に留めおくのである。そこに自分の作為や誇張,切り取りが働くのも同じだ。

 写真は自分と縁遠い趣味だと思っていたが,案外とやっていることは同じなのかも?と思う。




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