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「自分の感覚、感性を信じて取り組むオーディオ」ってどうなんだろう?

ふと思ったのだけれど、「自分の感覚、感性を信じて取り組むオーディオ」ってどうなんだろう?

「自分の感覚、感性を信じて」オーディオに取り組む、これは原点回帰的な意味で至極尤もな話なのだけれど、ふと僕自身に立ち帰った場合、「自分の感覚を信じて」オーディオをやっているかと問われると、驚かれるかも知れないけれど、強いて云えば「No」だったりする。もっと別の見方すると、ある部分は「Yes」である部分は「No」になる。

上のエントリで「原音再生」の定義について詳しく書いたけれど、先ず最初に僕が「原音」と呼ぶ生演奏があり、レコーディングマイスターの職人芸に拠る収録とミキシング編集調整を経て、完成品の録音データになりアルバムが出来上がる。僕はこれをエンコーディング(圧縮)の一種と捉えてていて、それをデコード(解凍)するのが、リスナーの手によるオーディオ再生の本質と考えている。人によってはこれを「再生芸術」や、故・菅野沖彦先生に習い「レコード演奏家」などと呼んだりもする。

リスナー、オーディオファイル主導で高品位且つ高音質な再生を目指そうとすると、「再生芸術」「レコード演奏家」と云う言葉が出てくる事からも判る通り、オーディオ機器選びから始まり、セッティングのノウハウなどを含めた、オーディオマニア道とも呼べるような趣味性を伴う多分に主観的な行為に勤しむ事になる。

そして多くのオーディオファイルは、大なり小なり自分の好み、感性、感覚を信じてオーディオに取り組むか、或いは評論家などの他者の感覚を信じて受け入れる(振り回されるとも云う)かをしているのだろうと思う。けれど、そこに何らかの客観性が伴っているかと云うと、甚だ怪しいオーディオマニアが少なくないのは想像に難くない。


✅主観の呪縛から逃れるためには?

オーディオ弄りは、云ってみれば主観、感覚による試行錯誤が主ではあるのだけれど、そんな中でも箱庭"AUDIO STYLE"管理人が意識的、無意識的に気を付けているポイントは以下の4つになる。

  1. 生演奏を沢山聴く事で客観的基準を持つ

  2. 自身の感性、好き嫌いにある程度疑いを持つ

  3. オーディオ機器の個性を尊重する

  4. 技術的な正しさから離れすぎない


 1)客観的判断の基準はあくまで生演奏

僕自身の場合はどうなのか?と振り返ってみると、先ず、自分の感覚を信じている部分は、聴く、弾くを含む生演奏の原音体験になる。これは経験としてオーディオ再生で試行錯誤するための羅針盤であり、体験した事実であって、本質的に揺るがない客観的判断のベースと呼べると思う。

但しこの基準のみでオーディオで良い音質を実現するのはなかなか難しい。

音楽再生の場合、元々技術的に不完全な録音を、録音エンジニアの主観で良くも悪くも歪められたものを元に、再生側では、各オーディオ機器製作者の主観的個性を持つオーディオ機器を、オーディオファイルの主観で寄せ集め、主観によって創意工夫しつつ再生する形になる。だからどうしても再生方法、再生機材に纏わる諸々の知識と経験が、高音質再生の実現のためには必要になる。

録音マイクに始まり、数多の機材を経由し、これだけ多くのプロセスと主観が入り交じると、この2つを共に見極める感覚が必要に迫られる。

  1. アルバム(商品)として完成された段階の録音データがどれだけ原音(元演奏)から乖離しているか?

  2. そして再生側で、元の演奏、音楽が持っている音楽表現そのものを如何に蘇らせることが出来るか?

1.生演奏を数多く聴いたり自分でも演奏する経験値があると、商品として製作された「アルバム」の音質が、どれだけ本来の元の演奏から乖離しているか?、更に失われていたり、はたまた録音~編集調整プロセスによって加えられ、脚色されているのかを感覚的に把握することが、程度の差はあれどある程度出来るようになる。

2.そして自ら再生する段階では、感覚的に染みついた「生演奏」や「音楽表現・・・奏者の意図」と照らし合わせつつ、不完全にエンコードされた録音を再生と云う名のデコード(解凍)を通して元の演奏に近づけるように、音楽的な機微を損なわぬ様なアプローチを試みることが可能になる。

この際、元の生演奏そのものが感覚的に身についていても、失われた音と音楽を改めて蘇らせるために必要なオーディオ再生技術についての匙加減は、音響機器や音響工学側の知識と使用経験を積み上げ、再生方法を経験的に試行錯誤しなければ判らない事も多い。その為、オーディオへの経験値が不十分な間は、理想的な再生イメージの実現にはなかなか達成し辛い。そして足かけ30年以上オーディオマニアを続けている僕自身が達成できているのか?と問われたら、正直なところ未だに自身が望むレベルでは達成できていないと思っている。

 ︙オーディオマニアと生演奏

生演奏をそのままそこにあったかのようにリアルに再現する技術は未だ無い。録音そのものが、まだまだ不完全な技術による妥協の産物だし、再生側の数多の選択肢は更に不完全かつ混沌としている。

オーディオ、特にハイエンドオーディオを横目で見ていてとても気になる事がある。もの凄く高音質っぽい何かが壮大に目の前に展開される音響芸術的な異空間を度々目にするのだけれど、そういった再生で屡々みられるとてつもない不自然さと違和感について、皆気にならないのだろうか?という部分だ。

僕かすらすると、それらは録音或いはオーディオ機器製作者の主観を通して後から盛大に補完再構成された、バーチャルリアリティとも呼ぶべき音響空間であって、本物のリアルでは無い。生演奏を知らないと、オーディオ機器を通しして眼前に演出されるこの生演奏っぽい紛いもの何かに容易く騙されるのではないかと、他人事ながらとても複雑な気持ちになる。

生演奏を知っているオーディオマニアと、まともに知らないオーディオマニアの間で起こりがちな音質論争は、そもそも、生演奏という基準点が有るか無いかに拠るところが少なくない様に感じる。これについてはもう、オーディオ云々の前に、生演奏を沢山経験してくださいとしか云えない。そうでなければ、彼らのイメージする高音質と僕がイメージする高音質は永遠に噛み合わない。

 2)自身の感性、好き嫌いにある程度疑いを持つ

冒頭に戻る。自分の感性を信じるべきか?このオーディオ機器を通して再生アプローチを試みる際に、僕自身は実は必ずしも「自分の感覚を信じて」はいない。言い方を変えると、ある程度まで信じてはいるけれども、常に疑いを持っている。

人間には聴覚器官の個人差に始まり、そもそも音質的な好み、主観的な音の好みが人の数だけ存在する。同様に、オーディオ機器の大半はPCの様に単純な数学的技術論に沿って正確に作られいる訳では無く、作り手側の主観的好みによって機材それぞれの個性が創られ、更にオーディオファイルが各々に「好み」を見つけてマリアージュする世界になっている。

録音の音質に個性があり、レーベル毎、アルバム毎に音質の良し悪しや音質傾向がバラバラな事からもでも解る通り、人間はそれぞれ好みも聴覚特性も違うから、再生機器から出てくる音質傾向も設計者によって千差万別だし、リスナーの好みも皆異なる。より良い音での再生を目指すには、多くの主観的選択肢のなかで、機材選択をしつつセッティングと創意工夫に取り組む必要がある。敢えて言うなら、個人の好みと傾向が近いとか似ている機材に出会えたらそれは幸せなことだと思う。

長年オーディオ再生に取り組んでいる僕にも、当然、主観的感覚と感性に沿って音質的な好き嫌いがあるから、自分好みの音質や音響は厳然と存在する。加えてオーディオは妥協が求められる世界でもある。社会的には高額な部類の趣味だから、欲しい機材がそうそう簡単に手に入るわけでは無いし、価格以前に製造数が少ないため、良さと必要性に気付いた時にはもう手に入らない機材や、アクセサリーなども枚挙にいとまが無い。手が届く中でオーディオを愉しみつつ納得できる心地よい妥協点を探ることになるのだけれど、その際に、自分の好み、自分の感性ばかり信じて、それのみで突き進んでしまうと、実はある弊害が起こる…。

 ︙自身の主観のみを信じることの危険性

自分好みに組み上げたオーディオ機器の奏でる音楽は無条件に心地よい。確かに心地良いけれど、その反面、僕はいつもそこに一抹の不安を感じる。自分の主観的好みだけで染め上げた再生音楽の世界・・・それは云ってみればリスナー本人の色眼鏡を通して予め取捨選択され歪められた音、音楽世界が目の前に展開される形になる。

そうやって主観的に組まれたオーディオシステムは、本人が聴きたい音は目立って良く聞こえているかもしれないが、逆に言えば本人が聞き逃している音楽表現がしっかり聴こえる音にはなりにくい。

主観を信じてばかりの再生装置からは、持ち主が気付いていない、持ち主自身の能力では辿り着けない音楽の深遠、奏者が語りかける音楽表現が、殆ど、或いは全く聴こえ無くなってしまう恐れがないだろうか?自分以外の他者が紡いだ音楽から新たな気付きを得るチャンスが「自分好みの音質」というフィルターを掛けることで失われてしまわないか?

ピュアオーディオの世界は、複数の単品コンポーネントと数多のアクセサリ等の組み合わせを自ら選び、電源や室内音響含め全てが、使い手の主観、はっきり言ってしまえば音楽的な能力、感性の鋭さに依存するため、面白いくらいにこの現象が起きる。メーカーやショップのデモンストレーション、オーデオーディオマニアが得意げに披露する超高額ハイエンドオーディオシステムの音が、特に元の演奏を知っている第三者が聴く際に強い違和感を感じたり、魅力的に聴こえ無い事がままあるのは、根本にこういった事情があるからだと思っている。


 3)オーディオ機器の個性を尊重する (妥協点とバランス感覚)

これはお互いに不完全な人間が創る個々のオーディオ機器を使いこなす際の話になるけれど、僕の場合、ひたすら正しい音質を目指して機器それぞれが持つ作り手の主観的な自己主張、色眼鏡を打ち消す方向で機材をセッティングするより、ある程度、敢えてオーディオ機材それぞれが持つ個性(制作者の主観と好み)を尊重する方が、結果的良い音楽再生環境に繋がる確率が高くなると思っている。

それぞれの機材制作者が、リスナー自身と比べて必ずしもよりハイレベルな音楽的知見がある訳では無いだろう。けれど少なくとも音楽に対して自分とは異なる視点が、製品毎に大なり小なり内在しているとは思っている。機材があまりにも自身の感性と合わない場合には仕方が無いけれど、往々にして、音と音楽に対するこれまで気付かなかった別の視点をもたらしてくれるのが、自分以外の製作者が創ったオーディオ機器やアクセサリーから生まれる音質であり個性だと思っている。そしてそれは敢えて単品オーディオを組み合わせる世界を経験する隠れたメリットだったりもする。

ピュアオーディオの世界でオーディオ機器を組み合わせるコツとして、自分好みの音質を求めて機材を無理矢理調教するのではなく、それぞれの機器の個性が喧嘩しないように、何よりも相性を重視して組み合わせつつ、上手にマリアージュする方法をお薦めしたい。「原音再生派」であれ、「個人の好み派」であれ、自分自身の望む音の世界を押し付けすぎないようにして、個々の機材の作り手の世界を尊重しながら組み上げることを意識することで、それぞれの機材が良い方向に共鳴し、それなりに個性はあるけれど、その範囲で無理のない音楽を奏でてくれるようになると思う。


 4)技術的な正しさから離れすぎない

オーディオ機器は、基本としての電気工学だけでなく、音響工学、ルームアコースティクスと何より機器間で複雑に絡み合う振動が思いのほか互いに影響しあうことで、最終的な音質に大きな違いが生まれる。他にも経験的に音質の違いを認識はできるけれど、まだプロセスがいまいち解明しきれていない、オカルト的な要素も(認めたくはないけど)少なくは無い。

とは云え、自分の感性や好みを信じ込みすぎると、技術的には明らかに間違っている事に対しても許容したり、肯定してしまう事になりかねない。間違ってることを間違ってると自覚した上で敢えて変則的に受け入れるのは有りだと思うけど、見て分かる測定結果より自分の耳の方を信じるとなると、そこはかなり慎重になるべきと思わなくもない。機械的な測定結果では判らない炙り出せない事象はたくさんあるけれど、少なくとも計測ですら判ってしまう範疇については、技術的に正しい方向性、望ましい方向性として、謙遜かつ従順である方がアプローチとして望ましいと思う。そうでないと、最終的に行き着く先は、自我ばかりに脚色されたでたらめの我流に陥ってしまう。

✅まとめ♪

僕自身の感覚としては、本質的に生演奏を基準にした客観的な基準での良し悪しと、自分の好みからくる好き嫌いを切り分け、客観 VS 主観を5:5くらいの感覚で、双方のバランスを取るようにしている。この方法であれば、客観的な良し悪しと自分の好みとで判断が異なる現象に出くわした際、客観と主観の何れかを取るにしても、自覚的にバランスを取る事が出来る。結果、主観的エゴイズムでも、実現不可能な理想論にも偏りすぎない妥協点、バランスの取れた着地点を見出しやすい。即ち、何らかのアプローチに失敗しても論理的に後戻りをする道筋を確保することが出来る。

オーディオは感覚の占める割合の多い趣味ではあるけれど、アプローチに於ける技術的な正誤や、個人の感覚による主観的好き嫌い云々とは別に、音質の客観的良し悪しそのものは存在すると思っている。趣味だから安全を脅かさない範囲で何をしても個人の好き勝手にして良いとは云えど、それが客観的にみて必ずしも良い結果につながる訳ではない。個人の主観を優先するあまり未だ気付けぬ可能性の存在を忘れてしまうと、自我か肥大するにつれて音楽を体験する意義の大切な部分を失いかねないと思う。その辺りの危険性を常に頭の片隅に置いて、主観と客観の2軸でバランスを取りつつオーディオを愉しめるようになると、より音楽から教授できる感動や知見が深まり、オーディオはこれまでよりもきっともっと楽しくなると思う。


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