ある言語についての考察 (フランス留学記 9月)

はじめに・・・
フランスシリーズ第2弾。一応、小説というつもりで書いた。改行を全くしていないのは意図してのことだが、noteのフォーマットでは読みにくすぎる。

 私たちは喋らない。見知らぬ人に自ら話しかけることは殆どない。仲の良い友人で集まってもお互い言葉を発しない時間がある。会話の多さが必ずしも相手への信頼を表すとは限らない。ここにしかるべき論理性を見出さねばならない。まずもって私たちはあまり喋らないのだろうか。このありがちな論説も国外に出てみれば他国人との比較におのずと納得できるものである。彼の国の人間は本当によくしゃべる。幼いころから延々としゃべる訓練を積み重ねてきているようなものだから、大学教授ともなれば2時間よどみなく講義をし続けることに何ら躊躇いなく、またその発話がたとえ意図通り届かなかったとしてもその失敗にさえ慣れているように見える。受け取る方はそれを受け取らなければならない絶対的な理由がないから、注意を向けることに神経質ではないのだ。だから失敗は非常に頻繁に起こり、それがあまり意味を持つことはない。失敗を前提にするか否か、これは重要な違いだ。私たちはコミュニケーションの失敗を過剰に嫌うので、それだけで十分しゃべらない理由になる。言葉が必ず届くとわかる瞬間に、相手の誤解を最大限防ぎつつしゃべる。聴く側は相手の意図を裏切らぬよう注意深く裏まで聞く。非常に精度高くねりあげられたこのコミュニケーション方法は、どちらかが何らかの要素を怠った場合あっけなく崩れ去る。そして不注意や怠慢は当然非難の対象になる。発話が論理性にかけていたために相手が意味を汲み取れなかった場合、彼がしゃべる前に深く考えなかったことが問題となる。あるいは論理性が十全に備わったものをうまく理解せずに返答した場合、その読み取り能力の低さが矢面に立たされることになる。その結果私たちは常に考え終わったことをしゃべる。そして考えられたことをよくよく推理しそれに対して再び考えをまとめて、返答する。しゃべることを通して考えることはリスクが大きく、難しくなる。それを長い時間試みないでいるので徐々にできなくなってゆくが、それはさして重要でない。喋ることを通して考えることができるという事実を忘れるのはひとえにコミュニケーションを守るためなのだ。しかし依然として大きな問題がある。会話の速さの中で常に考え終わってからしゃべることは不可能にも思われるのだ。ただし最初の発話者は難関を逃れられる。会話を始める前にたっぷりと考えを終わらせる時間を取れるからである。それに返答する者の負担が大変重いが、それを乗り切るために二つの方法が考えられる。考えずにしかるべき返答をすることと、会話の速さを遅くすることである。私たちはこの二つをうまく使いこなすようになる。前者は、あらゆる論理性を曖昧なうちに処理することのできる語彙を増やしその存在を肯定することによる。考えを終わらせることができなくとも会話を乗り切ることができるようになる。沈黙もその処理の一形態として選ばれている。しかし社会的な立場が上の相手に限ってそれが失礼にあたると考えられているので、発話に時間のかかるような全く別の言語を作り上げることによって二つ目の方法がとられる。全く別の言語を使うためには全く別の修練が必要だが、発話の速さを抑えるための方法が単位時間あたりに発話において使用される回数は少なくなっていくために修練が生涯にわたって足りるということはなく、別の言語の発話は必然的に遅くなってしかるべきである。この非常に巧緻な方法を用い、私たちは会話におけるコミュニケーションの完全性を守りつつ、会話の数を減らしている。しかしまた新たな問題が持ち上がる。会話をせずにどのように相手のことを知ることができるだろうか。完全なコミュニケーションの中では、完全なコミュニケーションができない人とそれができる人という区別、そしてさきほど用いた別の言語が強調する社会的な立場が高い人と低い人という違いしかなくなってしまうように思われる。この壁を乗り越えるためにまた二つの方法がとられる。一つは相手のことを知る必要がないと思うことである。しかし例えば他の利害関係によって相手のことを知る必要性が絶対的な場合に備えて、もう一つの方法がある。それは会話の持つ情報量を上げることである。一度の発話が帯びる情報を増やすために、また別の言語の形態が複数つくられる。私たちは複数ある選択肢から一つの言語形態を選んでそれを身に着けることで、少なくとも此の形態を選んでいるという情報を毎回の発話に付け加えることができる。会話をする両者がこの方法をとる場合、会話を始めた瞬間にお互いのことを多少詳しく知ることができるのである。なぜならこのような各形態の差異は非常に多岐にわたり、性別や生まれた地域や性格まで様々な情報を反映しうるからである。こうして私たちは少ない発話の中でより効率の高いコミュニケーションを実現している。漸く最後の問題までたどり着いた。それはこのコミュニケーション方法は会話する両者が注意深く実行しなければ成立しないということである。私たちのうちではお互いへの潜在的な非難によってこのコミュニケーション方法を普及させることが可能だが、相手が私たちではないものの場合それは不可能であるように思われる。だから私たちの完璧なコミュニケーションを守るためには、私たちではないものの存在を防がなければならない。私たちではないものの存在を防ぐためには私たちの言語は世界中で使われなければならないが、それも不可能であるように思われる。この不可能性を乗り越えるため次のような二つの方法がとられる。一つは私たちの言語圏を世界だと思うことである。もう一つは他の言語圏の私たちではないものが仮に存在したとしてコミュニケーションを試みないことである。それを長い時間試みないでいるので徐々にできなくなってゆくが、それはさして重要でない。他の言語圏の人間とコミュニケーションが可能であるという事実を忘れるのはひとえにコミュニケーションを守るためなのだ。

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