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あの日を思い返してみる

2011.3.11 14:46 

あんまり安い言葉で鎮魂はしたくない、自分自身なにかできている訳ではないけど、記録として思い返してみる。

あの日、僕は四国の山の中の『道の駅とおわ』にいた。農に関わる研修で農家のみなさんと勉強していた。突然地元で元消防署職員だったおじさんが、『関東付近で大きな地震があり大変だ!』と叫びだした。

講師をしてくれていた四万十ドラマの方々も我々を心配してくれて、研修を中止にしてテレビを見せてくれた。すると報道のヘリ内からとらえた津波で走る車が飲まれている映像が目に飛び込んできた。

すぐに役所に入電するもつながらず。先輩の携帯がつながった。『出張で宇都宮にいるので戻ったら状況を教える。』といったのが最後、携帯電話の基地局がダウンしもうつながらなかった。正直、老朽化した市役所の建物は潰れ、大半の人がもういないかもしれないといった最悪の事態を胸に抱えていた。帰るにも今から飛行機を取れるわけもなく、情報もなく、しかし、我々だけ暖かい場所で温かいごはんが食べられていることに罪悪感を覚えていた。

家庭の方は、子供が産まれたばっかりで、旦那もいない中長い長い揺れを体験した妻の恐怖は計り知れなかっただろうなと思う。幸いにもすぐ連絡が付き実家に避難することにしてもらった。

栃木に戻れたのが翌日の夜で、すぐに妻実家に妻と子供に会いに行った。薪ストーブの明かりと太陽光の自家発電で部屋が暖かくて安心した。すぐに、職場に行くと建物が残っていて安堵した。水の配給のため真っ暗な水道庁舎で明日の計画を検討していた場所に参加。そしてその翌日か翌々日かに岩手県山田町に公用車の寄付を届けに伺った。個人的には宮城県亘理町に災害ボラに一週間ほどお世話になった。

その後の記憶はあまりない。そして、僕の意識は東北に向いた。その事に対し、いろいろな意見があるだろう。賛否も、いや、より強い否定もあるだろう。地元が大変のによそのことをといったように。

このときから、自分の役割は、直接的に地元にマンパワーとして還元することから、地元外と関係性をつくり、関係の中から資金を生み出し、それを地元に還元することで地元を支援することに強く興味を抱いた10年のように思う。そして11年目以降はそれをより強固なものにするべく、市役所から出ようと考えている。

結局自分ごとの話で締めてしまったが、そんな意識にさせてくれたすべてのヒト、コト、モノに感謝しています。

ありがとう。

#東日本大震災 #クラフトビール #那須烏山



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