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漫画「フルーツバスケット」が教えてくれた、だれかを思いやるということ

昔から本を読むのが好きだった。

今でも週に1〜2冊は読んでいて、ビジネス書も小説も読む。漫画も好きで、『りぼん』も『週刊少年ジャンプ』も読んでいた。だけどどうしてか長くつづくものは苦手で、単行本が5巻を超えてくると読むのをやめてしまうことが多かった。


そんな私が唯一、23巻読み切って、しかも何度も読み返している漫画がある。

『フルーツバスケット』だ。

「フルーツバスケット」(原作・高屋奈月)は『花とゆめ』(白泉社)において、1998年から2006年まで連載した大人気少女漫画。全世界コミックス累計発行部数3000万部を突破し、2001年にテレビ東京系でTVアニメ化され(全26話放送)、2009年には舞台化を展開。コミックスは全23巻、愛蔵版は全12巻刊行されており、連載が終了し10年以上経った今でも根強い人気を誇っている。(以下略)
引用元:TVアニメ「フルーツバスケット」公式サイト


(どうでもいいが、わたしは『フルバ』の愛称で親しんでいる。)


お話はテントで暮らす女子高生・透(とおる)が、家事の腕を買われてとあるおうちで暮らしはじめるところからスタートする。でも実はその一家には、異性に抱きつかれると動物に変身してしまうという秘密が隠されていて・・・というのが物語の冒頭。

ここまで聞くと、ものすごくファンタジーな内容だと想像されるかも知れないが、実際はそうではない。ぜひ本編を読んでほしいので、できるだけ詳細は書かないようにするが、それぞれに傷を抱えたキャラクターたちが日々を過ごしていく姿を見て、はっと考えさせられることが多い。

お気に入りのシーンは?と聞かれたら、ありすぎて選べないし、どのキャラクターが好き?と言われても、それぞれの魅力があって決められない。それくらいに、フルバにハマってしまっている。


※ここからややネタバレを含みます。記憶を辿りながら書いているので、セリフの言い回しは少し違うかも知れません🙏


そんな中でも、印象に残っている場面がある。

とある交通事故で、運転手(加害者)も歩行人(被害者)も亡くなってしまう事件が起きた。

被害者の子ども(A)は、親を失ったことを悲しむ。そして加害者の子ども(B)は、悲しみに加えて申し訳なさを感じてしまっている。

そんな(B)の姿を見かねた(B)の恋人は、被害者の子ども(A)に対してこう言う。


「自分が一番不幸みたいな顔をするな。」


そしてそのことを(B)にも誇らしげに告げる。

「今日、言ってやったよ。」


それを聞いた(B)は、泣きながらこう言った。


「そんなの嬉しくない。」

「どちらかがより不幸かを天秤にかけて、それで勝ったって、そんなの嬉しくないよ。」


でも恋人には、なぜ泣いているのかも、その言葉も真意も伝わらなかった。


* * *


そんなシーンをぼんやり思い出していたら、なんとなく、今のわたしたちも同じなのかも知れないと思った。


たとえば私の身近には、介護に関わる人がいる。スーパーで働く人もいる。彼らはいま、働きに出なければならない状況に置かれている。(断っておくと、彼らが「働きたくない」と口にしているわけではない。)

反対に、飲食店を営む友人は、働きたくても働けない日々を送っている。思うように動けない苛立ちや、収入に対する不安は、どんどん大きくなっている。

そんな両者を天秤にかけて、どちらが大変かを比較するのは、むずかしい。「仕事があるだけいいじゃない」と言えるかも知れないし、「家で過ごせるんだからマシだろう」と返すこともできるのかも知れない。


大変さが目に見えるようにするルールを作って、「この状況なら何点」と加算していく方法もあるかも知れないが、大変さの種類や、その受け止め方は人によって違う。

仮にその結果、「あなたがこの中で一番不幸な人です」と決められたところで、それは果たして嬉しいのだろうか。


きっと今、いろいろな人が、それぞれに大変な思いをしている。それを天秤にかけて競うのではなく、隣にいる誰かを思いやったり、今の自分にできることからゆっくりと考えてみることが、大事なのではないだろうか。


* * *


そんなことを考えさせてくれたのは、フルバに出てきた個性豊かなキャラクターたちだった。

私にとっての人生のバイブル、ぜひたくさんの人に読んで欲しい。



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