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筆致を重ねてみる~文章のデッサン~

前回、下記の記事を書いた。

そもそもなんでこんなことをしたのかリード文が全くなかったので、読んだ人は「村上春樹のモノマネか」と思ったことだろう。

確かにモノマネである。だが、意図の全く無いモノマネではない。美術を専攻する人が始めに学ぶのがデッサン。対象を見て模写することで対象を正確に写し取る技術を学ぶ方法だ。では文章を書きたいと思い、その方法を学ぼうとデッサンをしないのは何故だろう。

僕が深く影響を受けた作家は沢山いるのだが、その中でも「文章を書く」ということで言えば花村萬月の影響はとても大きい。例えば「ぢん・ぢん・ぢん」の主人公であるイクオは小説家を目指している中で度々、辞書を引いている。これは花村萬月自身が行っている文章の書き方だ。それまでも僕は辞書を引くことが多かったのだが、この本に出会った20年前から、以前にも増して言葉の意味や使い方を意識するようになった。

その花村萬月があるインタビューの中でこう発言しているのを見つけた。


引用元

文章のデッサンをしている人に初めてで会った瞬間で、10年以上前に読んだこのコラムのことをずっと覚えているのはそれだけ衝撃が強かったからだろう。

今回、NOTE創作大賞のエッセイ部門にノミネートした。


色々と推敲を重ねたがそれ以上に時系列の正確さに注力した為、人様に読んで貰えるクオリティにはなったと自負している。これを世に広めたいというよりも、他人の批評に晒される「舞台」に立ちたいという気持ちが初めて生まれたことの方が僕にとって大きかった。

そうやって人様の評価を受けようと考えた時に、言葉は辞書で学んできたが、文章の書き方は独学というか書きたいように書いてきたことにハッとする。

昔、美術を専攻していた人に教えて貰った言葉が今も鮮明に残っている。

「筆で描く線は、学べば学ぶほど凡庸になっていく」

僕の書いているこの文章は、自分自身にとっては心地よいリズムではあるが、それは自分の身体の中から生み出したものだから。他人にとって僕のリズムが心地よいかどうかは別。

そう考えたときに、紹介した花村萬月のインタビューを思い出した。

「文章のデッサン、やってみっか」

とはいえ、文章そのものを写し取るのも芸が無さすぎる。ということで

村上春樹「風」

の文章を描いた次第。

村上春樹を選んだ理由は、僕の身体の芯には無いリズムだったから。若かりし頃、「ノルウェーの森」を一回、「海辺のカフカ」を一回、10年前に「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を一回読んだだけ。

縁あり、知命も近くなって10数冊ほど、集中して村上春樹に向き合ってみた。ぼんやりとして輪郭のない物語と、脈絡や意図が分からない会話なのに、読んでいると何か物事の本質が掴めそうな気がしてくる、その複雑さや曖昧さのある文章を味わえるようになったのだなと少しだけ感慨深かった。

改めて自分自身が描いたデッサンを眺める。言葉の線がまだまだ硬く、鋭くて、あの柔らかで掴み所の無い、村上春樹の言葉の線を正確になぞることは出来なかった。

まあ初めての試みにしては上出来だろう。たまには自画自賛してみる。


餓狼

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